2016年7月26日火曜日

時代の正体としての”デカダンス“

昨日、「ポケモン現象」のことについて書いた。反響もいただいた。
今日、定期の病院へ行った。その医師は時流になかなか敏感だ。
病院で交わす話ではないが、ポケモンのことを話し合った。

彼は「お試しダウンロード」をしたという。彼はその病院の理事長だ。理事長室にもポケモンが2匹いたという。あまりのバカらしさに呆れ、もし院内にポケモンがいたらどう対処しようかさんざん考えたという。

「私はあのゲームには絶対反対です。余りにも反知性的です」と言っていた。

それにしても、この国のメディアは何を考えているのか。
ある日までそれを礼賛し、各地で事故が多発すると、まるで踵を返すようにその弊害を言い募る。
「若者が楽しんでいるのを大人がとやかく言うことはない」と言っていたコメンテーターまでがだ。

ある日を境に、それは社会事象となり、いやそれとてもメディアが位置付けたものだが、あっと言う間に伝播していく。
その光景はパソコンンの新しいソフトが出た時に朝から店頭ならび殺到した光景にも似ている。
それの使い方もわからないという人までも。

時流に乗り遅れまい。その根底にあった意識。

ポケモンはたとえば1F構内にも出現しているという。帰還困難区域にも出現しているという。
ポケモン、それは「商業主義」の行き着いた先だ。

伊勢神宮などでの「ユーモア」溢れた拒否看板が礼賛される。
学校の校門にある“校内のポケモンは保護されています。密猟者は停学にします”というタテ看が話題となる。

おおらかな国民性だ。

ポケモンを「文化」と言った人がいた。おもわず浮かんだのが「デカダンス」という言葉だ。比較しては、同位置で論じてはいけないのだろうが。

デカダンスという言葉は、発祥の地であるフランスと日本ではいささか趣を異にしているようだし、その解釈にも、たとえば耽美主義というものが入ると、勢い「文化論」になる。

今度の場合は、単純に「退廃的」と捉えて書いている。珍奇なものを求めて,耽美的・官能的な刺激に浸ろうとするという意味でも。

そして思う。

メディアの余りにも想像力の無さを。
想像と想像力とでは全く違う。

ポケモン探しのスマホの画面はまさに“想像”だけの社会だ。

「想像力」とは、それぞれが考えた上での己の力を養うことだ。社会事象を見る眼の中で一番重要なことだ。
逆説的なメディアリテラシーだ。彼ら自身に突き付けられた。

そして言う。今の日本人は、限りなく「想像力」を養わず、持たなくなっていると。想像力の前にまず「迎合」があるということを。

戦時中、大本営発表を、軍部に迎合して”事実“の如く伝え、ポツダム会議のことも国際情勢に対する想像力を働かせず、宣言、会議それ自体にすら反論していたことを。
それが敗戦を遅らせた大きな原因であったということも。

きょうもまた言う。

「バーチャルの世界に身も心も耽溺させて、その結果が何をもたらすのか」と。
「バーチャルの世界は、おしなべて現実逃避の場」なのだと。

バーチャルの世界に存在しているものって何なのだろう・・・。

このばかばかしい騒ぎについてはもう基本的に触れることをやめる。それに“異論”を唱えることが、その時流を煽ることにもなりかねないから。

少なくとも、文化を含め、「デカダンス」の時代は終わっている・・・。
平成のポケモン・デカダンスも終わりが来るだろう。後には何が残るのか。

芥川流に言おう。「その行方は誰も知らない」と。

2016年7月25日月曜日

「時代の正体」としての“ポケモン狂騒曲”

携帯電話の7割近くがスマホに代わり、スマホをツールとしての異常な現象。
「ポケモンGO」なるゲームの出現だ。
アメリカで大流行し(少なくともメディアはそう報じている)、日本にも“上陸”したその遊び、ゲーム。

時流に乗り遅れまいということか、何でも”参戦“してみようということか。

どんなゲームやアプリでも開発するのはその企業の勝手なのだが・・・。

スマホ依存症ということがここ何年も言われてきた。ある種の社会問題化している。それは多分SNSのことだったのだろう。

スマホを使ってはいる。SNSなるものにも、常に「懐疑的」なものを持ちながらも時々覗いている。個人の行動や趣味、嗜好がどうだということでは無く、そこから知り得ることの優位性があるからだ。

ポケモン遊びに狂奔している人たち。決しって若者だけでは無い。中高年にもそれがいるという現象。

アメリカで大流行とテレビが連日報道していた。それは“意図”を持った、切り取った映像であると思えるが。

日本上陸・・・。マスコミはまさに狂騒曲の伴奏者だった。朝日新聞が一面トップで大々的に報じたのには驚愕だった。

それほどのニュース価値があるのかどうか。メディア内部の「リテラシー能力」。

マスコミ報道が、連日の報道が、ポケモン騒ぎに輪をかけている。

「バスに乗り遅れまい」という国民性か。
皆がやっているから、という勝手に名づけた「文化」を追い求めようとしているのか。

ポケモン騒動に「時代の正体」を見る。「時代の空気」を見る。

どんな「ゲーム」をしようと、何に狂奔しようと、それはそれこそ「個人の自由」だ。
そのことをとやかく言うつもりは無い。

スマホの中にある「享楽」。

ポケモンを探して表に出て歩くから健康にいい。屁理屈だ。

スマホ依存症に陥っている人類。
依存症・・・。麻薬依存症(それはなかなか根絶できない)はれっきとした”犯罪“だ。

ギャンブル依存症。大方がカネを無くし、家庭崩壊への導火線にもなる。
アルコール依存症。医者の力を借りねば脱することは出来ない。
ニコチン依存症。脳疾患含め、様々な重病の遠因、原因ともなるとされる。

煙草・・・。それを語るのはなかなか難しい。煙草農家は長い間、日本の農業を支えてきた。
「ちょっと一服」は、精神的効果すらあったが。
「健康に害がある」ということで世間から「排斥」された。

スマホ依存症、ネット依存症。これらは何をもたらすのか。今言えることは「考えることをやめた」人間を生むことだ。

そして何よりも、バーチャルの世界に身を置くことの快感を享受していることだ。

人は「現実」にさまざまな問題点を抱えている。バーチャルの世界に“逃避”しても何も解決されないのだ。

「現実」は「現実」でしか解決できないのだ。現実からの逃避は自己喪失にもつながるのだ。

社会生活に危険があるとして、歩きスマホやながらスマホは禁止されているはずだ。その「禁止」という制約は物も見事に破られている。

ポケモン探しに夢中になって、道路に飛び出してきた人がいる。まったく正常に道路を運転していた人が、そこで人身事故を起こしたらどうなる。
既存の道交法で、過失傷害とされるのか、前方不注意とされるのか。
刑事罰にはならないまでも保険会社は運転者の非をついてくる。彼らの常套手段だから。

IT技術に管理される人たち、スマホのGPS機能に行動を把握される人たち。
ITが人間を管理する今の時代。

だからこうも言ってみる。

「ポケモンGOの正体」とは・・・。と。

多くの人がポケモンにうつつを抜かしているなかで、理不尽なことは多々起きている。
沖縄の高江の権力による「暴力的排除行為」。

石棺という言葉を使ったには大して意味がありませんでしたと公言する政府関係者。
結局、大金を投じて役立たなかった1Fの遮水壁問題。

ポケモンに当たり障りの無いコメントしか出せない政府。

「一億総活躍社会」と宰相は言う。ポケモンに狂っている人たちは、その「1億総活躍」の枠内に入っている人なのか。

もしかしたら、連日のゴルフで疲れた体を「ポケモンGO」をいじって、癒したりしていて(笑)

2016年7月20日水曜日

“ボスポラス海峡”と“ミラボー橋”

フランスやドイツではテロが頻繁に起き、多くの人の命が奪われている。
テロとは“無縁”の国だと思っていたものだが。

トルコでは“クーデター”だ。

アラビア半島とそれに隣接する国々。揺れに揺れている。
東洋と西洋の懸け橋として、それは文明としてもだが。
そこで銃が乱射され、爆弾が破裂し、戦車が走り、空から無差別の如き、閃光弾が撒かれる。

そこに起きている憎しみの連鎖と武力戦争。それは「事実」だ。
しかし、そのことの「真実」はわからない。

欲望、格差、憎悪・・・。それらの言葉は浮かんでも「真実」には迫れない。

もしかしたら、目の前の現実、事実から「逃避」しているのかもしれないが、

彼の地の古き良き時代を、記憶にある言葉で考えてしまう。

ロシアの詩人、エセーニンはボスポラス海峡をこう詠んだ。

ボスホラスへは行ったことがない。
このことは 君 きいてくれるな
でも、ぼくは海を見たんだ、君の目に。
碧の火の燃える海なのだ。

トルコ、イスタンブール、カスバ・・・エキゾチックな感慨を持たせてくれていた。

一度行ったことがあるパリは西洋文化の花開いた街に見えた。
“争い”を感じない町だった。
それが、今は・・・。

シャンソンのミラボー橋を想起する。

ミラボー橋の下をセーヌ川が流れ
  われらの恋が流れる
  わたしは思い出す
  悩みのあとには楽しみが来ると
  日も暮れよ 鐘も鳴れ
  月日は流れ わたしは残る


手と手をつなぎ 顔と顔を向け合おう
  
  こうしていると
 二人の腕の橋の下を

  疲れたまなざしの無窮の時が流れる
  日も暮れよ 鐘も鳴れ
 
  月日は流れ わたしは残る

流れる水のように恋もまた死んでゆく
  
命ばかりが長く
希望ばかりが大きい
日も暮れよ 鐘も鳴れ
 
月日は流れ わたしは残る
日が去り 月がゆき
 
過ぎた時も
 昔の恋も
二度とまた帰ってこない
ミラボー橋の下をセーヌ川が流れる
日も暮れよ 鐘も鳴れ
 
月日は流れ わたしは残る

堀口大学が訳したアポリネールの詩。マリーローランサンの恋人。

月日の流れは、「わたし」が残ろうが残るまいが、“時代”を変える。
ボスポラス海峡もセーヌもそこで“戦争”を見ることになる。

国境を接し、異民族が暮らす地域。異民族が共存してきた地域。ナチスの時代を除いては。
そこで起きているもろもろの惨事。

“語り得るものを持ち合わせていない“という異国の一人としての無知と悲しさ。

テロは各地に連鎖する。バングラディッシュの邦人が巻き込まれた惨事。
黒人と白人が殺し合うと言う銃社会アメリカ。

今、人類は何を目指しているのか、どこに向かおうとしているのか。

誰も「答え」を持っていないのかもしれない。

クーデター騒ぎで思う。武力クーデターで思う。この国でもあった「反乱事件」。「騒乱事件」。2・26事件。
まさに政権打倒の軍事クーデターそのものだったことを。

2・26事件の“原因”の一つが、“動機”の一つが、皇道派とか統制派と言うことだけではなく、「政治腐敗と政財界の様々な現象、そして、農村の困窮があったということを。

もし、この国で「改憲」なるものが成就し、自衛隊が国防軍と言う名の軍隊になった時、それは「軍事クーデター」を惹起する要素も抱え込む材料となるのではないかということ。
「改憲」を成し遂げた側にも、その銃口が向けられる可能性だってあるということ。

世界各地で起きていることは、おしなべて、この国にあっても「他山の石」でもあるということ。

美しい詩歌の世界は、逆に悲惨な現実を突き付けているという「時代を考える鍵」。
灼熱の太陽がさまざまな想念を運んでくるようで。

2016年7月14日木曜日

「天皇退位」と「憲法」と

昨日、NHKがスクープした独自と銘打った天皇退位の意向問題。
他のマスコミの追いかけ報道含め、各社それぞれ“取材”はしていたのであろう。

問題はなぜこの時期にNHKがやったのか。そして宮内庁がこぞって否定しているということの“怪”。

天皇陛下がその意向であることは、これまでの言動や発言からして、あまりにも唐突なことではない。

しかし、皇室典範にも書かれていないことを承知の上で、その「ご意向」を漏らしていたとすれば、陛下の真意はどこにあるのだろうか。

少なくとも、宮内庁が今後否定しようとも、陛下が記者会見でもしない限り、このことはなかなか“続報”としては伝えられまい。

これだけの問題になった以上、政府や国会は、女性天皇の問題も含めて、皇室典範の見直しに取り組まねばならなくなる。

皇室に関する記述がある憲法2条に書かれているように。

しかも、それは急を要することなのだ。

内閣や国会が、まず取り組まなければならない課題は、この皇室典範ということになるのではないか。

それを改定するにも2年や3年は有にかかる。

いわゆる「改憲」を優先議題にしているわけにはいかなくなるのではないか。

天皇は全くの「護憲論者」だと思っている。

これまでも憲法や戦争の問題について、安倍政権との”違和感“を与えていたことは間違いない。

まさか天皇が、安倍政権を忌避して、改憲問題に踏み出させないように、天皇の“権能”の範囲内で、身に代えてと思われたとも考え難いが。

はるか数百年前の幕府と天皇との数々の軋轢の歴史があったことを考えてしまう。

なぜ、この時期に、参院選が終わったこの時期にこのNHKのスクープ報道なのか。
後追いにしては完璧なまでの他者の動き。

報道を否定する宮内庁。しかし、宮内庁への取材でわかったとクレジットをつけている記事もある。

今、天皇家の周りでは何が起きているのか。

すべては天皇がどこかの機会で自分の意向をはっきり表明する以外に、このことの“真相”は不明だ。

とにかくこの天皇のご意向は、改憲論議の帰趨に大きな影響を与えることになろう。
象徴だ、元首だと書き直す以前の問題として。

そんなことをふと考えてしまったやぶにらみ論。

2016年7月11日月曜日

テレビと政治

参院選、結果は予想通りだった。予想通り、それは獲得議席のことだけでなくテレビ報道の在り方だったということ。

開票速報の焦点は「改憲勢力」三分の二・・・。

改憲政党三分の二・・・。

かなりのカネをかけて出口調査などを行い、“業界競争”に労苦を費やした。
当落の予想が当たったとか間違ったとか。

そんなことが問題なのではない。

“改憲勢力”とは何か。自民・公明などの与党だけを指している。
違う。

民進党の中にだって「改憲」に前向きな議員だっている。

選挙の争点を安倍が言うままに垂れ流してきた。結果で「改憲勢力」を言うなら、選挙前になぜもっとそれを、「テレビの矜持」として俎上に上げ、視聴者にそれを伝え、議論の、至上の議論としなかったのか。

安倍の腹の中は「改憲」であったことは明白なのに。それを知りながらも敢えて”避けた“、そうそれは安倍が選挙期間中に封印したことの歩測を合せるように。

三分の二の意味、改憲発議の手順、国民投票への行程・・・。
ワイドショーなるものの司会者は、今さらながらに「よく知らなかった」と解説者の話を聞いて納得したような顔をするその無知さ加減。

視聴率という至上命題があるからか、政権の介入、“脅迫”を避けたのか。
なんとも悲しいテレビ。そんな思いがしたものだ。
要するに安倍の土俵で何やら「公共の電波」を使っていたということ。

投票率は低かった。これも予想通りだ。
有権者の50%ちょっとの投票。そのまた何分の一かもしれない得票。
それが、「憲法」というものに対してのこの国の意志をきけるということ。

選挙の中では大方語られなかった憲法論議。
それに疑義をさほど抱かなかった有権者。

またもスチュアート・ミルの言葉を引かざるを得ない。
「一国の国民は自分たちの平均的レベルを超える総理大臣を持つことは出来ない。また一国の政治が総理大臣の器量を超えることはない」。

国民の多くが、有権者の多くが“平均的レベル”ということなのか。
安倍との“運命共同体”であることを願ったのか。

何歳になっても「わからない」ことだらけだ。

ここ数年、「知憲のすすめ」ということを言ってきた。憲法を学べと言ってきた。直接でも間接でも。
しかし、前述のテレビの司会者ではないが、知憲に励んだ人がどれくらいいたのだろうか。

憲法とは決して他人事ではない。9条の戦争放棄だけが憲法では無い。
例えば「生活保護」なる社会システムは、憲法に「健康で文化的な最低限度の生活」と書かれているから出来上がった制度だと言っても過言ではない。

それぞれの人が個人としての価値観や要求、個人的にはなんて断りを入れながらも意見を言うことが出来るのは、「国民は個人として尊重される」と憲法にめいきされているからだ。

言論の自由、表現の自由・・・言うまでもなかろう。

話しが飛躍するようだが、アメリカでは憲法の2条で「銃を持つ自由」を保障している。国がそれを担保している。
結果、アメリカは、国の理想とはかけ離れたように、銃社会になり、連日のように発砲、殺人事件が起きている。

憲法にある条項は一人一人の”日常“に関与してくると言うこと。

秋ごろには安倍は「改憲」を議論の俎上に上げてくるだろう。もちろん国会の憲法審査会は政府の提案でそれを“議論”しない仕組みになってはいるものの「立法府の長だ」と豪語した安倍、どんな手を使ってくるのか。

とにかく、今度の参院選。安倍の、安倍の手下による「メディア戦略」が功を奏したと言っても過言ではあるまい。

この手法は、この先も折に触れて使われるのだろう。

視聴率や広告収入の問題はあるだろう。でもテレビ人よ。もう一回テレビの矜持を取り戻してくれないものかと。
「お前はただの現在に過ぎない」と“自己判定”しないでいられるためにも。

2016年7月10日日曜日

「病院で考えた民主主義」のこと

今日は参院選の投票日だ。

あらためて感じる争点無き選挙戦、いや争点隠しの選挙戦だったなと。

そして、この一年、考え続けてきたこの国の“民主主義”というもの。
言葉だけが踊り、それは曲がり角どころか、持て余しているようになっているかもしれないと言う“政治”の現実。

投票率は低いと見込む。

その“原因”は何か。
有権者に選挙への関心が薄れているということだけか。

選挙権が18歳以上となった。新有権者はどれほど選挙に関心を持ったのか。
関心を投票行動に結びつけたのか。
投票率を高めるために、投票に行った新有権者には“ご褒美”が与えられると言う。

有権者として当然の行為である選挙に参加することまで”餌“でつらねばならないという。悲しい実相だと思う。

夜8時、テレビは一斉に大きなテロップでいきなり投票結果を伝えるはずだ。
「与党圧勝」とか「改憲勢力三分の二」とかになるのか。

少なくともこれまでの「横並び」のような世論調査の結果を信じるならそんな予想が湧く。

やがてお決まりのように何回も映し出される「バンザイ!」の映像。
かつてその世界に身を置いていた者として、なんともお恥ずかしい次第。

一瞬にして自分が政治に参加したということの結果が現れてしまうということ。

どこか「間尺に合わない」し「摩訶不思議」とも言える。
その“速報”なるものにいかほどの意味があるのか。

メディア、特にテレビの「過当競争」と言わざるをえない。

選挙に関心が無い。投票しても意味が無い。そう思わせてしまうのは、当日の速報のことでは無く、事前の“正確”な世論調査の影響を否定できない。

「投票しても何も変わらない」という意識を植え付けるだけだ。

世論調査の中には無関心層という分け方がある。かなり多い。
「なんだ、こんなに無関心な人がいるんだ。それじゃ“参加”しなくたっていいじゃん。そう思う人だっている。

投票に行くと言う行為は「当たり前のこと」なのだ。選挙の結果がどうなろうと、投票には行くべきなのだ。結果が問題なのではない。それ以前の意志と行為の問題なのだ。

「民主主義」を言うならば。


去年の7月17日、突然(それは大方突然にくる)脳梗塞なる疾患に襲われ緊急入院していた。

手足は不自由になっていたが、頭脳は比較的確かだった。

病室に落ち着いてから、なぜかベッドの中で、連日「民主主義」ということを考えていた。

国会前で、連日のように「安保関連法案」をめぐる“新しい形”の反対運動が展開されていたからだ。
民主主義、議会制民主主義の在り様とも絡んで。

民主主義とはなんだ。これだ!とコールがこだましていた。

病院で民主主義を考える。つまり自分がその時置かれた環境の中でそれを考える。“奇妙”な体験だった。

医師はきちんと、検査をし、病状を説明し、的確な、それはもちろんその医師の判断ではあるが、的確な対処法を示してくれた。
処方箋を作ってくれた。
患者としての自分は、その医師の“施策”に、彼に信を置くことが出来ると判断したから身を委ねた。

政治と国民との間の在り様にも似ている。
正確な病状の説明は、政治にあっては正確なこの国の現状を示すことでもある。
処方箋を示す言うことは、こんな政治をやりますということでもある。

どういう治療を行い、回復に導くかは、政治の場であっては、「本音」を語り、それについて、“インフォームド・コンセント”、納得できる「同意」を語りかけることである。

未だ足は不自由だし、なにかと日常に不便さはある。
でも、患者に対して正確な病状を説明し、的確だと思う治療方法を彼は熱心に説明してくれた。
僕はそれに納得した。

「病院で考えた民主主義」とはこんなことだった。

そんなことをそこはかとなく思う参院選投票日のきょう。

選挙の在り方、選挙報道の在り方。大きく変える時代に来ていると思慮することしきりにて。

2016年7月7日木曜日

「異形の国」としての日本

参院戦についてちょこっと思うことを書く。

結局「原発」は全くと言っていいほど選挙の争点にも論点にもならなかった。 

争点にならなかったと言うよりも、皆、それを避けた。

おかしな言い方かもしれないが、参院選は「定期人事異動」みたいなものだ。
6年経ったら受けねばならない人事考課だ。
政権選択選挙ではない。

有権者の側からすれば、考課の対象を何にするかということ。であるはずなのに・・・。

争点なるものは考課される側が持ち出す。原発は考課の対象にならなかったということだ。

5年前をもうすでに忘れている。思考が「異形」なのだ。

立地地域であるところの候補者も原発は語らない。専門家に任せておけばいいとしている。

「専門家」は政治家では無い。国家の在り様を語れないし、あるべき国家像を持ってはいない。

立地地域の候補者ですらそれを語らない、主張しない「原発」。

それこそが時によっては、そう、福島で表出したように、時の政権が交代の憂き目を見ることに至った「国家としての課題」であるはずなのに。
だから「争点にしない」という見方も成り立つのだろうが。

福島県から立っている候補者とてそうだ。

アベノミクスがどうだの、改憲勢力がどうなの・・・。

マスコミもそれに“便乗”して、単なる”数“の話しに終始している。

福島の現実・・・。

それこそ「国民投票」ではないが、住民集会ではおおかた“軋轢”が生まれている。
国の説明もどこか“義務感”めいている。

安倍も福島に遊説に来た。その行程で、道端の、もとは田畑だったところに積まれている黒いビニール袋の山を見て、何かを感じたであろうか。感じてはいまい。およそ“無関係”なことなのだろうから。

その言は耳には届いてこない。

国の将来を左右するのはアベノミクスなる(自分の名を冠するその“傲慢さ”はともかく)経済政策はいわば詐術に満ちている。国の将来を決するものではない。国際情勢、世界的経済情勢が相関関係にあるものだ。

アクセルをふかす、エンジンンをふかす。意味不明なポピュリズム的アジテートで国民はまさに“局部麻酔”をかけられたような状態なのではないか。

そして野党たるものの、なんたる不甲斐なさよ。特に民進党なるところの。

党首には党首としての一種のカリスマ性が求められるものだ。

岡田にはそれが皆無だ。

選挙には向かない党首なのだ。人を引き付ける、街頭演説で聴衆を魅了するような話術を持たない。

「選挙の顔」ではないのだ。

改憲問題は「争点隠しだ」とメディアは、そこに登場する人たちは、おおよそ異口同音のように言う。
ならば改憲勢力なる政党に改憲を発議出来る3分の2を取らせてみようよ。

発議なんて出来るはずがないはずだ。

議席の問題では無い。国民投票というのが待っている。
英国の国民投票を見れば、その「恐ろしさ」がわかるはずだ。

国は「分裂」するかもしれないのだ。そんな度胸はありやなしや。

「民主主義」と言うものが何であるのか。逆説的な言い方かもしれないが、今、我々が思い描いて来たソレは”死語“にも等しい。

独裁政権が出来ると言う。それを許すほどに日本人は「異形」になったのだろうか。なっていない。

経済政策にしても安保政策にしても、改憲問題にしても、それらは「政治の力」で克服できる可能性がある。

核の問題は違う。もはや人類が人智をもって制御できないものとなっていることに認識を新たにすべきだ。

核、原発の問題に関して「正常性バイアス」を働かせるのはあまりにも愚なのだ。

選挙で問われない原発問題。国民の側からもそれを俎上にあげるべきことでもあるのに。

不作為のまま、目先のことで語られる選挙・・・。

それは何を意味しているのか。

原発を止めるのは「専門家」ではない。政治なのだ。しかし、政治はそれから意識的に逃避する。

そんな思いに煩悶しながら迎える参院選・・・。

「異形の国」と書いた。「異形」とは、津本陽という作家が田中角栄に付した呼称だ。

「異形の将軍」、その本の帯封にはこうある。

//角栄を知ることはこの国のしくみを知ることだ//

2016年7月5日火曜日

「こんな政治家が君臨する国」ということ

一昨日来た新聞の片隅に書いてあった。今朝のコラムにも書かれていた。

オリンピック代表団の壮行会で、森喜朗がこんなことを言ったという。
「国歌を歌えないような選手は日本の代表ではない」。
「口をモゴモゴしてるだけじゃなくて、声を大きくあげ、表彰台に立ったら国家を歌ってください」と。

この壮行会、国歌は“斉唱”ではなく、陸自の“歌姫”による国歌「独唱」だったという。それは式場内に周知されていた。

独唱も斉唱も区別が付かないんだね。この老害おじさんは。
なんでこんなおっさんが2020年の東京オリンピック組織委員会の会長なんだろう。

音楽を政治に持ち込むな、スポーツを政治に持ち込むな。この人たちがそのお仲間たちが最近言い出したセリフ。

ならば問う。政治にスポーツを持ち込むな。議席を確保するために有名スポーツ選手を選挙にだすな。


東京五輪に向けてのこれまでの数多くのゴタゴタ、不祥事。どこかでこの男が絡んでいる。

ラグビー選手が全員、大声で国家を歌っているか。テレビで見る光景の中にそれは無い。足元のラグビー協会で喚けよ。

この人がこの国の総理大臣だった。ITが進み始めた時代。彼はそれを「イットとはなんだ?」と喋った無知無能な政治家だったという記憶。

彼は安倍の“後見人”でもある。
お互いがお互いの代弁者であるかのような光景を何度も見た。

スポーツ界に「君臨」する政治家。それも“独裁者”のごとく。

国歌「君が代」とはなにか。
古今集にある詠み人知らずの恋歌が原型だ。天皇陛下とは無関係な出自を持つ歌だ。

日本人は長らく「国歌」を持たなかった。明治になってから委嘱された宮内庁雅楽部が選んだのが君が代。

当時の為政者はこの歌の「君」を天皇陛下に置き換えた。
勝手な推測を言えば、天皇家にとっても“迷惑”なことでは無かったのではないか。

そういう場に居れば、そういう時であれば大声で歌う。国歌「君が代」を。
歌うには難しい歌だ。途中でオクターブあげてみたり下げてみたり。
「高らかに歌え君が代」。

それはどこか校歌を斉唱した時と同じ感覚だ。今週末には大学の学員会支部総会がある。
校歌を卒業生全員が知っているか。いない。口をモゴモゴさせているOBもいる。暗唱している自分は思いっきり歌う。それは「往時」を懐かしむだけの行為だけかもしれないが。

その大学は卒業したけれど、「愛校心」があるかと問わるとさしたる愛校心なるものもない。が、その時には歌いたくなるものが校歌だ。

オリンピック参加選手は誰しも「日の丸」を掲げたいという。思っている。国旗「日の丸」が掲揚される中で国歌「君が代」の演奏を聴く。それを目指している。

2011年、ナデシコジャパンが日の丸を掲げて場内を一周していた光景は忘れない。
その他でも日の丸を名誉として、それに身を包んで喜びを表現する選手も数多くいる。
スタンドからは日に丸の小旗が打ち振られる。

なぜ森喜朗如きに国歌君が代の斉唱を強要されなくてはならないのか。
非難されねばならないのか。それに対して自分の意見をいう選手がいてもいいじゃないかと思う。
場違いな言葉に対して相手がだれであろうと異論を言う。
そんな“気概”を彼らは彼女らは持っているはずだと信じたいから。

「裏声で歌え君が代」。丸谷才一の著作がある。かれは「君」を「恋する人」と認識したうえで、国家と個人を、独特の難しい文体で綴っている。

上りのエスカレーターを逆走して恋人を追う描写。それは高度成長に浮かれる世相を、国を、比ゆ的に表現したかったのだろうとも受け止めている。

主人公の一人である台湾人との会話では、「国家」と「民衆」、国家と社会制度のありようについての理論的な議論が交わされている。

国歌斉唱は「国家的建前」なのか。「国家の理想」なのか。皆が同じようにすることが。

スポーツと国歌。混同させて考えることしか出来ない「哀れな単細胞男」よ。
この男の無知蒙昧な言葉が選手のモチベーションを下げないことを祈るのみにて。

2016年7月3日日曜日

「不」という文字に支配され・・・

バングラディデュ、ダッカでのテロ。

語る言葉を持てない。語りようがないのだ。
無差別な殺人行為、“コーラン”を唱えられなければ殺すということ。

ISという組織、集団とどう対峙し、非道な行為を止めさせることが出来るのか。
イスラム過激主義集団をどう見ればいいのか。

さきのトルコ、イスタンブールでのテロでも然りだ。

これでは地球上は全部が戦闘地域と言えるのかもしれない。
ISという集団を無くすために、過激派集団を無くすには激しい空爆しかないのか。
彼の地に住む“無垢”の民をも犠牲にすることを厭わずに。

国連をはじめ、国際社会は「無力」なのだろうか。

いま、世界を覆っていることに限りない「不安」が付きまとう。
事の重大さを思う。

JAICAとして、人々を援助しようとする人がテロのターゲットに。
余りにも、我々の常識からすれば「不可解」すぎるのだ。

英国がEUを離脱する。先行きは「不透明」だ。

「不確実性」が増す。

多くのイスラム教徒は、「排除」の対象とされるだろう。

ルペンが登場し、多くの支持を得ている。トランプが多くの支持を得る。

宗教、人種などによる差別が台頭するのだろうか。

「不寛容」な「不寛容さ」が持つべき価値観として再来する。

21世紀という時代は、後年、どんな表現で歴史の中で語られるのだろうか。

「不見識」な言葉や思考が飛び交う。

自らの身を思えば、やはり“老後の不安”なるものがつきまとう。

政治への「不信感」は増す。あまりにも「不作為」なことが多すぎる。

今の時代を読み解くことは「不可能」に近い。


論語に「不憤不啓」という言葉がある。憤せずんば啓せず。

自分が物事を理解するのに苦しんで、知ろうとする努力に燃え、発憤しなければ、自分の中の悩みを啓(ひらく)ことが出来ない、解決出来ない、知識を得ることが出来ない。そんな意味と捉えている。

墳という字は、今は“憤怒”の墳と置き換える。

理性を保ちながら、世の中の事に怒りを持って“対処”しないと、どう読み解けばいいのかが見えなくなってくるとでもいうことか。

「不」という字に翻弄され、やりきれない思いが錯綜しているのであり。