2016年7月11日月曜日

テレビと政治

参院選、結果は予想通りだった。予想通り、それは獲得議席のことだけでなくテレビ報道の在り方だったということ。

開票速報の焦点は「改憲勢力」三分の二・・・。

改憲政党三分の二・・・。

かなりのカネをかけて出口調査などを行い、“業界競争”に労苦を費やした。
当落の予想が当たったとか間違ったとか。

そんなことが問題なのではない。

“改憲勢力”とは何か。自民・公明などの与党だけを指している。
違う。

民進党の中にだって「改憲」に前向きな議員だっている。

選挙の争点を安倍が言うままに垂れ流してきた。結果で「改憲勢力」を言うなら、選挙前になぜもっとそれを、「テレビの矜持」として俎上に上げ、視聴者にそれを伝え、議論の、至上の議論としなかったのか。

安倍の腹の中は「改憲」であったことは明白なのに。それを知りながらも敢えて”避けた“、そうそれは安倍が選挙期間中に封印したことの歩測を合せるように。

三分の二の意味、改憲発議の手順、国民投票への行程・・・。
ワイドショーなるものの司会者は、今さらながらに「よく知らなかった」と解説者の話を聞いて納得したような顔をするその無知さ加減。

視聴率という至上命題があるからか、政権の介入、“脅迫”を避けたのか。
なんとも悲しいテレビ。そんな思いがしたものだ。
要するに安倍の土俵で何やら「公共の電波」を使っていたということ。

投票率は低かった。これも予想通りだ。
有権者の50%ちょっとの投票。そのまた何分の一かもしれない得票。
それが、「憲法」というものに対してのこの国の意志をきけるということ。

選挙の中では大方語られなかった憲法論議。
それに疑義をさほど抱かなかった有権者。

またもスチュアート・ミルの言葉を引かざるを得ない。
「一国の国民は自分たちの平均的レベルを超える総理大臣を持つことは出来ない。また一国の政治が総理大臣の器量を超えることはない」。

国民の多くが、有権者の多くが“平均的レベル”ということなのか。
安倍との“運命共同体”であることを願ったのか。

何歳になっても「わからない」ことだらけだ。

ここ数年、「知憲のすすめ」ということを言ってきた。憲法を学べと言ってきた。直接でも間接でも。
しかし、前述のテレビの司会者ではないが、知憲に励んだ人がどれくらいいたのだろうか。

憲法とは決して他人事ではない。9条の戦争放棄だけが憲法では無い。
例えば「生活保護」なる社会システムは、憲法に「健康で文化的な最低限度の生活」と書かれているから出来上がった制度だと言っても過言ではない。

それぞれの人が個人としての価値観や要求、個人的にはなんて断りを入れながらも意見を言うことが出来るのは、「国民は個人として尊重される」と憲法にめいきされているからだ。

言論の自由、表現の自由・・・言うまでもなかろう。

話しが飛躍するようだが、アメリカでは憲法の2条で「銃を持つ自由」を保障している。国がそれを担保している。
結果、アメリカは、国の理想とはかけ離れたように、銃社会になり、連日のように発砲、殺人事件が起きている。

憲法にある条項は一人一人の”日常“に関与してくると言うこと。

秋ごろには安倍は「改憲」を議論の俎上に上げてくるだろう。もちろん国会の憲法審査会は政府の提案でそれを“議論”しない仕組みになってはいるものの「立法府の長だ」と豪語した安倍、どんな手を使ってくるのか。

とにかく、今度の参院選。安倍の、安倍の手下による「メディア戦略」が功を奏したと言っても過言ではあるまい。

この手法は、この先も折に触れて使われるのだろう。

視聴率や広告収入の問題はあるだろう。でもテレビ人よ。もう一回テレビの矜持を取り戻してくれないものかと。
「お前はただの現在に過ぎない」と“自己判定”しないでいられるためにも。

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