2016年7月7日木曜日

「異形の国」としての日本

参院戦についてちょこっと思うことを書く。

結局「原発」は全くと言っていいほど選挙の争点にも論点にもならなかった。 

争点にならなかったと言うよりも、皆、それを避けた。

おかしな言い方かもしれないが、参院選は「定期人事異動」みたいなものだ。
6年経ったら受けねばならない人事考課だ。
政権選択選挙ではない。

有権者の側からすれば、考課の対象を何にするかということ。であるはずなのに・・・。

争点なるものは考課される側が持ち出す。原発は考課の対象にならなかったということだ。

5年前をもうすでに忘れている。思考が「異形」なのだ。

立地地域であるところの候補者も原発は語らない。専門家に任せておけばいいとしている。

「専門家」は政治家では無い。国家の在り様を語れないし、あるべき国家像を持ってはいない。

立地地域の候補者ですらそれを語らない、主張しない「原発」。

それこそが時によっては、そう、福島で表出したように、時の政権が交代の憂き目を見ることに至った「国家としての課題」であるはずなのに。
だから「争点にしない」という見方も成り立つのだろうが。

福島県から立っている候補者とてそうだ。

アベノミクスがどうだの、改憲勢力がどうなの・・・。

マスコミもそれに“便乗”して、単なる”数“の話しに終始している。

福島の現実・・・。

それこそ「国民投票」ではないが、住民集会ではおおかた“軋轢”が生まれている。
国の説明もどこか“義務感”めいている。

安倍も福島に遊説に来た。その行程で、道端の、もとは田畑だったところに積まれている黒いビニール袋の山を見て、何かを感じたであろうか。感じてはいまい。およそ“無関係”なことなのだろうから。

その言は耳には届いてこない。

国の将来を左右するのはアベノミクスなる(自分の名を冠するその“傲慢さ”はともかく)経済政策はいわば詐術に満ちている。国の将来を決するものではない。国際情勢、世界的経済情勢が相関関係にあるものだ。

アクセルをふかす、エンジンンをふかす。意味不明なポピュリズム的アジテートで国民はまさに“局部麻酔”をかけられたような状態なのではないか。

そして野党たるものの、なんたる不甲斐なさよ。特に民進党なるところの。

党首には党首としての一種のカリスマ性が求められるものだ。

岡田にはそれが皆無だ。

選挙には向かない党首なのだ。人を引き付ける、街頭演説で聴衆を魅了するような話術を持たない。

「選挙の顔」ではないのだ。

改憲問題は「争点隠しだ」とメディアは、そこに登場する人たちは、おおよそ異口同音のように言う。
ならば改憲勢力なる政党に改憲を発議出来る3分の2を取らせてみようよ。

発議なんて出来るはずがないはずだ。

議席の問題では無い。国民投票というのが待っている。
英国の国民投票を見れば、その「恐ろしさ」がわかるはずだ。

国は「分裂」するかもしれないのだ。そんな度胸はありやなしや。

「民主主義」と言うものが何であるのか。逆説的な言い方かもしれないが、今、我々が思い描いて来たソレは”死語“にも等しい。

独裁政権が出来ると言う。それを許すほどに日本人は「異形」になったのだろうか。なっていない。

経済政策にしても安保政策にしても、改憲問題にしても、それらは「政治の力」で克服できる可能性がある。

核の問題は違う。もはや人類が人智をもって制御できないものとなっていることに認識を新たにすべきだ。

核、原発の問題に関して「正常性バイアス」を働かせるのはあまりにも愚なのだ。

選挙で問われない原発問題。国民の側からもそれを俎上にあげるべきことでもあるのに。

不作為のまま、目先のことで語られる選挙・・・。

それは何を意味しているのか。

原発を止めるのは「専門家」ではない。政治なのだ。しかし、政治はそれから意識的に逃避する。

そんな思いに煩悶しながら迎える参院選・・・。

「異形の国」と書いた。「異形」とは、津本陽という作家が田中角栄に付した呼称だ。

「異形の将軍」、その本の帯封にはこうある。

//角栄を知ることはこの国のしくみを知ることだ//

“チェルノブイリ”異聞

  ロシアがウクライナに侵攻し、またも多くの市民、日常が奪われて行く。 ウクライナという言葉、キエフという言葉、チェルノブイリ・・・。 そう、あの最大の原発事故を起こした地名の幾つか。 「チェルノブイリ原発事故」。1986年4月26日。 ウクライナの北部にあるその...