2016年7月20日水曜日

“ボスポラス海峡”と“ミラボー橋”

フランスやドイツではテロが頻繁に起き、多くの人の命が奪われている。
テロとは“無縁”の国だと思っていたものだが。

トルコでは“クーデター”だ。

アラビア半島とそれに隣接する国々。揺れに揺れている。
東洋と西洋の懸け橋として、それは文明としてもだが。
そこで銃が乱射され、爆弾が破裂し、戦車が走り、空から無差別の如き、閃光弾が撒かれる。

そこに起きている憎しみの連鎖と武力戦争。それは「事実」だ。
しかし、そのことの「真実」はわからない。

欲望、格差、憎悪・・・。それらの言葉は浮かんでも「真実」には迫れない。

もしかしたら、目の前の現実、事実から「逃避」しているのかもしれないが、

彼の地の古き良き時代を、記憶にある言葉で考えてしまう。

ロシアの詩人、エセーニンはボスポラス海峡をこう詠んだ。

ボスホラスへは行ったことがない。
このことは 君 きいてくれるな
でも、ぼくは海を見たんだ、君の目に。
碧の火の燃える海なのだ。

トルコ、イスタンブール、カスバ・・・エキゾチックな感慨を持たせてくれていた。

一度行ったことがあるパリは西洋文化の花開いた街に見えた。
“争い”を感じない町だった。
それが、今は・・・。

シャンソンのミラボー橋を想起する。

ミラボー橋の下をセーヌ川が流れ
  われらの恋が流れる
  わたしは思い出す
  悩みのあとには楽しみが来ると
  日も暮れよ 鐘も鳴れ
  月日は流れ わたしは残る


手と手をつなぎ 顔と顔を向け合おう
  
  こうしていると
 二人の腕の橋の下を

  疲れたまなざしの無窮の時が流れる
  日も暮れよ 鐘も鳴れ
 
  月日は流れ わたしは残る

流れる水のように恋もまた死んでゆく
  
命ばかりが長く
希望ばかりが大きい
日も暮れよ 鐘も鳴れ
 
月日は流れ わたしは残る
日が去り 月がゆき
 
過ぎた時も
 昔の恋も
二度とまた帰ってこない
ミラボー橋の下をセーヌ川が流れる
日も暮れよ 鐘も鳴れ
 
月日は流れ わたしは残る

堀口大学が訳したアポリネールの詩。マリーローランサンの恋人。

月日の流れは、「わたし」が残ろうが残るまいが、“時代”を変える。
ボスポラス海峡もセーヌもそこで“戦争”を見ることになる。

国境を接し、異民族が暮らす地域。異民族が共存してきた地域。ナチスの時代を除いては。
そこで起きているもろもろの惨事。

“語り得るものを持ち合わせていない“という異国の一人としての無知と悲しさ。

テロは各地に連鎖する。バングラディッシュの邦人が巻き込まれた惨事。
黒人と白人が殺し合うと言う銃社会アメリカ。

今、人類は何を目指しているのか、どこに向かおうとしているのか。

誰も「答え」を持っていないのかもしれない。

クーデター騒ぎで思う。武力クーデターで思う。この国でもあった「反乱事件」。「騒乱事件」。2・26事件。
まさに政権打倒の軍事クーデターそのものだったことを。

2・26事件の“原因”の一つが、“動機”の一つが、皇道派とか統制派と言うことだけではなく、「政治腐敗と政財界の様々な現象、そして、農村の困窮があったということを。

もし、この国で「改憲」なるものが成就し、自衛隊が国防軍と言う名の軍隊になった時、それは「軍事クーデター」を惹起する要素も抱え込む材料となるのではないかということ。
「改憲」を成し遂げた側にも、その銃口が向けられる可能性だってあるということ。

世界各地で起きていることは、おしなべて、この国にあっても「他山の石」でもあるということ。

美しい詩歌の世界は、逆に悲惨な現実を突き付けているという「時代を考える鍵」。
灼熱の太陽がさまざまな想念を運んでくるようで。

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