2015年11月20日金曜日

国境とは・・・県境とは・・・。

今日も多分、ISを殲滅するための、いや、それだけではないかもしれない。
シリアや中東への空爆が行われているのだろう。
多量な物量作戦にものをいわせて。有志連合なるものの名誉にかけて。

そしてテロリストの掃討戦が展開されているだろう。

パリでは無辜の死者に向けての祈りが捧げられている。テロを機に人々はあらためて団結と連帯を誓う。

ベイルートの難民キャンプへの空爆も然りだった。国境なき医師団への空爆も然りだった。

戦いの犠牲になるのはそれを防ぐ手立てを全く持ち合わせていない市民・・・。
イラクへの空爆もそうだった。9・11後のタリバン殲滅もそうだった。
もちろんパリでも然り。

犠牲になるのは普通の市民・・・。

嫌な表現だが、きょうもまた彼の地では多くの死者が出ているだろう。
「パリ」の扱いは大きい。その他の地での“死”の扱いは小さい。

数字だけで語られる死。

「わからないこと」の理由の一つだ。

フランスは国境を封鎖した。これ以上のテロを防ぐために。テロリストは国境外からやって来るとは限らない。「自国民」の中から生まれている。

国境とは何か、を考える。
シリアを中心にひかれた国境線。存立する多くの国。その国境線は第一次世界大戦の中で生まれた、イギリス・フランス・ロシアが勝手にひいた国境線だ。

サイクス・ピコ協定。秘密協定が今のテロの要因を作っている一つだ。
オスマントルコ帝国を破ったイギリスやフランス、ロシア。
第一次世界大戦の時。イスラムの民は三分割された。分割統治された。そして国が作られた。国境が作られた。

その線引きはそこに住む“住民”の意志とは無関係だった。戦勝国が、それぞれの”利権“を計算して、いわば「机上」で引いた線。

民族は分断された・・・。その“歴史”が今に続いている。

多発するテロを憂いながら、中東の地の歴史が頭をよぎる。

そして思う。

実存が本質に勝るのか、本質が実存に勝るのか。

フランスの哲学者サルトルは21世紀のこの出来事をどう読み解くのだろうか。

県境とはなにか・・・。原発事故は福島で起きたことだ。誰しもがその事故の被害を「福島」という言葉で括る。

福島県は明治政府によって、明治の官僚の「机上の線引き」によって、その歴史とは無関係に出来上った県だ。

放射能は地図にある県境は無関係に降り注いだ。
宮城県丸森の筆甫地区。飯舘村の北側に隣接する部落。

県境とされるのは一本の道路。丸森の人たちの生活圏は南相馬だった。数歩歩いての福島県。

原発事故被害の「対象」から外されている。線量は飯舘と同じだ。
「福島」という限り、国の支援や“復興”対象には筆甫は入っていない。

県と町が意を用いている程度だ。いわば“忘れられた地”なのだ。置き去られた地なのだ。

沖縄も琉球処分によって日本に編入された地だ。琉球民族の意志とは全く無関係に。

イスラムにしても沖縄にしても。「歴史」に「もし」は無い。しかし、その「もし」を考えて見ることも必要なのかもしれない。

パリを想い、沖縄を想い、フクシマを想う。なんら“結論”を持ち得ないままに。

“チェルノブイリ”異聞

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