沖縄を考える時、1960年代から70年代はじめの「政治の姿」が思い起こされる。
1960年代、日本の対米輸出は好調であり、貿易収支は常に黒字基調だった。
その象徴だったのが繊維。
1ドルブラウスなんて言葉もあった。とにかく安い日本の製品がアメリカ市場を混乱させ、大きな政治、外交課題となっていた。
時の大統領ニクソンの悲願は、どうにかして日本製品の輸入を規制できるか。それは政治生命にもかかわる課題だった。
池田勇人の病気退陣のよって成立した佐藤内閣。佐藤栄作の掲げる政治課題は沖縄返還、祖国復帰だった。
悲願と言ってもいい政権公約だった。
「沖縄の復帰なくして日本の戦後は終わらない」。繰り返し佐藤栄作が言っていたのをよく承知している。
本格的な返還交渉が始まる前、沖縄に行ったことがある。アメリカの施政権下にある沖縄を見た。
沖縄に行くには「パスポート」が必要だった。初めて手にしたパスポートは沖縄行きのものだった。「外国」に行くためのものではなかった。
那覇空港にはPXがあった。アメリカの煙草や酒が免税店で売られていた。税関があった。
で、沖縄返還と繊維交渉。
佐藤栄作は大平や宮沢では埒が明かなかった通産大臣に田中角栄を起用した。
田中は“荒業”をもってして繊維問題を解決した。
国内の繊維業界に当時のカネにして2000億円以上を払い、業界を「補償」し、繊維機器を国が買い入れ、壊すと言う角栄ならではの手法。
アメリカのサンクレメンテで行われた佐藤・ニクソン会談で沖縄返還が決まった。
「6・15」という日にちをTBSが抜いた。
東京から「同行記者」が数多く行った。その一人だった。政局記者の関心は、「角福戦争」にあった。佐藤が後継を指名するのではないかという予測の中で。
会談の主要議題は「沖縄」であったにもかかわらず、政治記者の関心は沖縄では無く政局にあったということ。
繊維交渉の妥結、決着が沖縄返還の実現に結びついていた。
だから言われたのだ。
「糸を売って縄を買った」とか「糸で縄を買った」とかと。
核抜き本土並み。それが佐藤の毎回言う「丁寧な説明」だった。沖縄返還が彼をノーベル平和賞受賞者にもした。
だけど今にしてもあらためて思う。
「核抜き本土並み」というのがいかにいい加減なものであったかと言うことを。
“密約”は暴かれることとなった。密約は今では公然たる事実となっている。
「他策ナキヲ信ゼムト欲ス」。密使、若泉敬が書き残した著作だ。彼を自死においやった遠因には沖縄があったのかもしれない。
佐藤の沖縄返還問題には陰で実兄の岸信介の尽力もあった。
沖縄返還と相前後するかのようにニクソンは「電撃的」に中国を訪問した。お膳立てをしたのは策士のキッシンジャー。
キッシンジャーは中国に対して「日米安保条約は日本に核を持たせないための条約だ」と説明したとも言う。
なんで“古証文”のような話を思い出しながら書いたか。どこか今のアメリカを中心にした、たとえば日米同盟の強化という話しに通底しているように思えるから。
戦後は終わらない発言は、福島の復興なくしては日本の再生は無いと見栄を切った大叔父とその系譜にある総理大臣に重なるから。
今の沖縄の現状を佐藤栄作はどう見ているのだろう。彼の家にあるであろうノーベル平和賞のメダルはどう思っているのだろう。
安倍の祖父は安保改定を批准させるために国会内に機動隊を投入し、野党議員をごぼう抜きに排除した。孫の晋三は辺野古に警視庁の機動隊を投入している。
なにをかいわんやの感・・・。
2015年11月5日木曜日
“チェルノブイリ”異聞
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