2015年11月25日水曜日

“断捨離”としての原発

断捨離という言葉がいつの頃から言われ始めたのか。
流行語にもなった。
誰が言い始めたのかは不明だが。どうも”原点“は仏法にあるらしい。

断捨離とは一つの生活の術だ。「もったいない」という概念の対極語ではないようだ。

不要なモノなどの数を減らし、生活や人生に調和をもたらそうとする、そんな考えだとか。

それは個人の生活の在り様を言ったものだが、広く、社会全般についても言えることかもしれない。

原発がそのいい例だ。
核燃料サイクルの一環として、夢の高速増殖炉として開発された「もんじゅ」。
結局は使い物にならなかった。

核のゴミを減らす科学技術の一つの到達点であったにもかかわらず。

その“稼働”には、あの原子力規制委員会ですら匙を投げた。
運営主体を変えろと。

もんじゅ、一日の維持費が5千万円、年間200億円。

全くのムダ金が注ぎ込まれていたということだ。

維持費を垂れ流す核のゴミを運搬する船だって係留されたままだ。
コスト、コストを言うのなら、これほど採算に合わないものは無い。

これは一例だ。

コストに見合う利益を果たして原発が生んでいるのか。

福島に投じられている廃炉に向けての作業費。様々な機械が投入されている。
そして、何よりも汚染対策、住民対策。

何兆円ものカネが投じられる。

間尺にあって無いはずだ。だから、「原発」断捨離の勧めといいたい。
原発と言うのは、それで“潤う”人がいようとも、結局「無駄な物」なのだと。

人生の調和を限りなく崩していくものだと。

何を今さらと言われるかもしれないが、人間はあまりにも余計なもの、いろんなものを求め過ぎたのだ。

拡散された放射性物質。それに汚染された「指定廃棄物」。
それは決して福島だけのものではなく、宮城・茨城・栃木・群馬・千葉をも巻き込んでいる。

捨て場の無くなった指定廃棄物。16万トン以上だ。いずれも仮置き場に一時保管されたまま。
その処分方法は・・・。その仮置き場を巡って、住民は“分断”されていく。

そう、その“分断”こそが、4年半以上を経過した、あの事故の最大の災禍なのかもしれない。

指定廃棄物は当該県が処理すると国は決めた。それに応じる自治体はない。
福島では富岡町に「処理場」を作ることになりそうな気配だ。
補助金まで県は用意するとか。

もし、富岡が応じれば、他見の「ゴミ」も福島でお願いしますってことになりかねない。

臭いものは大本を断て。処理出来ないゴミを出すものはその施設を捨てろ。
原発に依存する生活様式から離れろ。
再稼働を求められる地域の人はそれを断れよ。“便利”に慣れ過ぎた生活、それがエネルギーに依存している。そんな欲望は捨てようよ。


もんじゅとは文殊菩薩から、ふげんとは普賢菩薩から名づけられたもの。なんとも罰当たりのような。

断捨離とは現代の「文殊の知恵」かもしれない。

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