2016年11月1日火曜日

「兵士供給地」としての東北

戦闘状態と言おうが、衝突と言い換えようが、そこが「戦場」であることには間違いない。

指呼の間に迫った新たな「派遣部隊」。その主軸は青森にある陸上自衛隊第9師団第5普通科連隊だ。第9師団には青森だけではなく、岩手など東北の自衛隊員も含まれている。

それは、たまたま、「派遣」の順番が青森に回ってきたということなのか。

すでに北海道からも行っているはずだし。

少なくとも、駆け付け警護なることも含めて、新たな任務、新たな“戦闘準備”をして南スーダンに派遣される自衛隊は第9師団が初めてだ。

いささか薄れた記憶だが、あの戦史に残る「203高地」の事件。最後まで死守しようと戦ったのは福島の富岡出身の兵士だと聞いている。

「東北人は我慢強いから」がその”理由“だったとも聞いている。

一銭五厘の手紙、赤紙。それで召集されていった兵士たち。

今の自衛隊員は召集令状で集められた人たちではないだろうが。

大袈裟に考えているのか、僻みでとらえているのか、そういう訳では決して無いが、「国策」に東北人は翻弄されて来たのではないかとも思っている。

なぜか、それは明治維新にあった薩長による「東北処分」「東北仕置」に思えてならない時がある。

もう20年以上も前か。かつての職場の番組審議委員長を郡山農協の会長が務めていた。
課題番組は「戦争」にかかわる番組だった。いや、当時のニュースステーションだったかもしれない。

番組内容について議論が進んで行く中、その委員長は突然大声で机を叩きこう言った。

「君たちは一銭五厘の赤紙一枚で戦地に行った我々を侮辱するのか」と。そう、その委員長は戦争経験者だった。

その番組は決して兵士をバカにしたものでは無かった。でも、彼の怒りをかった。
その人の名前は「甲子郎」、大正13年生まれのはずだ。

その時、自分の中で思ったのは「もっと戦争の”実相“を勉強しなければ」という思いだった。


暮らしの手帳の編集長だった花森安治が書いている。
「見よ、僕ら一銭五厘の旗」。一部を抜粋する。

“軍隊というところは ものごとをおそろしく はっきりさせるところだ
星一つの二等兵のころ 教育掛りの軍曹が 突如として どなった
貴様らの代りは 一銭五厘で来る軍馬は そうはいかんぞ
聞いたとたん あっ気にとられた しばらくして むらむらと腹が立った
そのころ 葉書は一銭五厘だった 兵隊は 一銭五厘の葉書で いくらでも
召集できる という意味だった

そうか ぼくらは一銭五厘か そうだったのか

そういえば どなっている軍曹も 一銭
五厘なのだ 一銭五厘が 一銭五厘を
どなったり なぐったりしている
もちろん この一銭五厘は この軍曹の発明ではない
軍隊というところは 北海道の部隊も、鹿児島の部隊も おなじ冗談を おなじアクセントで 言い合っているところだ
星二つの一等兵になって前線へ送りださ
れたら 着いたその日に 聞かされたのが きさまら一銭五厘 だった
陸軍病院へ入ったら こんどは各国おくになまりの一銭五厘を聞かされた
 
満洲事変 支那事変 大東亜戦争
貴様らの代りは 一銭五厘で来るぞ とどなられながら 一銭五厘は戦場をくたくたになって歩いた へとへとになって眠った
一銭五厘は 死んだ
一銭五厘は けがをした 片わになった
一銭五厘を べつの名で言ってみようか

「庶民」

ぼくらだ 君らだ・・・“


平成28年、郵便切手82円の時代。一銭五厘はいくらに“換算”出来るのだろうか。綺麗ごとを言うようだが、人の命はカネに変えられない。しかし、自分たちの命を「一銭五厘」という“価値”で呼ばれていた時代があったということ。

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