2016年10月30日日曜日

「唯一の被爆国・唯一の被ばく県」の中で考える

日本は世界で唯一の被爆国である。しかも二つの都市に原爆を投下され、多くの市民が死亡し、今なお、被爆の影響下で苦しんでいる人たちがいる国である。

核兵器使用反対、核兵器根絶を言える“権利”を持っている唯一の国である。

しかし、その被害者であった国が核兵器禁止に関して、国際社会で「曖昧」な態度をとり続けている。

単純に言えば、アメリカを中心とした、「パワーバランス」の枠の中に組み込まれ、「禁止」への積極的意志が感じられないのがこの国なのだ。

国連の委員会で「核兵器禁止条約について来年から各国が協議する」という決議に日本は反対した。

決議は賛成123カ国、反対38カ国で採択された。この数字の結果だけではまだ国際社会は健全なのだ。

しかし、それが、その“意図”が何であれ、核兵器禁止に向かおうとする動きに日本はなぜ反対するのか。
原爆投下国であるアメリカと歩調を合わせて。

そこには「外交の独自性」は存在しない。
日米同盟の名のもとに、アメリカ追随外交を続けている国としか映らない。

核兵器に関しては、被爆国でありながら、その反対運動をしてきた組織、原水協と原水禁に分裂した過去の「負の反対運動」の歴史がある。

単純に言ってしまえば、共産党と社会党の”路線対立“に組み込まれてしまったということだ。

今は違うはずだ。「被団協」という被爆者とNGOが作った団体があるだけだ。

被団協は「決議」が採択されたことを歓迎するとともに、アメリカ追随外交を臆面もなくやってのける日本政府に怒りの声をあげた。抗議文も政府に送ったという。

核を持つ国に追随するだけで、独自のきちんとした意見はないのか。立場は無いのか。

原発についてもそうだ。影響は国全般に及んでいるはずなのに、唯一の被ばく県「福島」は、原発に関して、明確な態度を示していない。
日本政府に「追随している」ようにしか見えない。

まだ10万の人が避難している。子供の甲状腺がんについてはまだまだ何十年も先まで、その影響が懸念されているというのに。

この国は何をめざし、どこへ向かおうとしているのか。さっぱりわからないのだ。いかに「外交テクニック」が必要な事だとはいえ。

わかりやすい政治、わかりやすい外交、わかりやすい東電との交渉、わかりやすい政府との交渉。

もろもろ“複雑さ”が増す中にあって、「わかりやすさ」が一番求められている時代ではないのか。

論語に「よらしむべし しらしむべからず」と読み下される一章がある。

“為政者は人民を施政に従わせればよいのであり、その道理を人民にわからせる必要はない”

大方の解釈だ。でも違うと思う。孔子の思想からすれば。

「人民に知ってもらう、わかってもらうことは難しい。だからわかってもらえる努力を為政者はしなければならない」と読み解くべきだと。

得てしてエリート官僚は、事を難しくし、自分たちの「優位性」を確保しようとする。

今年の「ヒロシマ」は何だったのか。オバマも、そしてもちろん安倍も。安倍は広島の空の下で、全国民、全世界に向けて“核廃絶”を読んでいたと記憶しているのだが。

なんかうすら寒い予感さえしてくる。

原発で生じた多くの核物質。それらを再利用してこの国は“核保有国”、核兵器を持とうとしているのではないかと。抑止力と言う名のもとに。
非核三原則すら国会で言うのをためらった人なのだから。

亡くなられた三笠宮のことを、遅まきながらもうちょっと勉強してみようとも思う。
戦争のこと、皇室の在り方の事。宮の発言や書かれたことを知っていた人は多いみたいだ。それがなぜ生前に話題とされずにきたのか。

何故、メディアや識者がそのことを、それらの事を「発信」しなかったのか。

そんな今のこの国の「空気」に抗う意味でも。

ハロウィンの仮面、仮装の中に隠されているような”素顔“を確かめる意味でも。

仮面で装う人間社会。山に装いをもたらす秋の紅葉の季節。自然の為せるわざ。

自然と核とはどう考えても「同化」するわけもなく。

“チェルノブイリ”異聞

  ロシアがウクライナに侵攻し、またも多くの市民、日常が奪われて行く。 ウクライナという言葉、キエフという言葉、チェルノブイリ・・・。 そう、あの最大の原発事故を起こした地名の幾つか。 「チェルノブイリ原発事故」。1986年4月26日。 ウクライナの北部にあるその...