昼のテレビニュースで、自民党の総裁選候補者が、なにやら大声で言っていた。喋っていた。誰が何を言ったのか。何も伝わってこない。なぜか。そこには「言葉の力」が無いから。力とは大声を言うのではない。本当の自分をさらけ出し、心に響くものがあってこそ、人に伝わるものだから。
多言を弄している。でも伝わらない。なぜか。それは、それらの言葉がある意味“荒唐無稽”であり、その場しのぎの“ウソ”であることを皆見抜いているから・・・。
政治家は言論の府に身を置くものである。たとえば、本会議の演壇に立って、古い言葉だけれど、「声涙ともに下る」演説をしてこそ、政治家の真価が問われた。洋の東西を問わず。歴史に残る名演説、名言があった。たとえば、リンカーンの独立宣言、ケネディの就任演説・・・。
決してアジテーターとしての評価では無い。
日本の政治家の言語力は著しく低下している。それは、国語教育がおろそかにされてきたせいだろうか。世相に迎合している故なのだろうか。
「政治生命をかけて」「全身全霊、身をとして」。もういいよ、そんなお言葉の羅列は。
例えば書道家、書道にいそしむ人たち。文字にされた言葉を書く。与えられた文字を模写しているだけか。もしそうならば、それを見た人に何ほどのものが伝わるのか。上手いだけでは伝わらない。
それが、与えられた言葉であったとしても、その意味を理解し、自分の中で、その言葉を生んだ人の心中を察し、咀嚼し、墨の筆に万感の思いを込めて、そこに自分の感情を込めながら、ぶつける。
見られるものは、見るに値するようなものにしなければならない。
政治家の言語力の低下、貧困。
昨日、麻生太郎が言った言葉に「私の渡世では・・・」と言うのがあった。その後に仁義というのがあったかどうかはしらないが。少なくとも渡世という、いわばヤクザ言葉を政治家が公に使うのはいかがかと。この「いかがかと」、これも、政治家が常用する曖昧語。あえてそれを・・・。
石原伸晃が「サティアン」と言った。そのテレビ番組は確かに見ていた。
「原発事故後、郡山に行きました。校庭に剥がされた土が積んでありました。そのまま放置してはいけない。東電の原発のサティアンに持っていくべきだ」。
そんな要旨。
サティアン。それはオウム事件で“有名”になった名称。“化学兵器”を作っていたところ。いわば”オウム“の悪の象徴。それになぞらえるとは・・・。忌まわしい言葉を引き合いに出すとは。サティアン、それのもともとの意味は聖地。
ノブテル発言にミノモンタも、毎日新聞のヨラ記者も、その他のコメンテーターも何も反応しない、しなかった。なぜだ。
ノブテルは元日本テレビの記者。勘違いでしたという言い訳で済ませようとする卑怯さ。その言をなんとも思っていないようなTBSの番組。
「テレビの合わせ鏡」のように見える。
ノブテルが言った校庭の汚染表土。郡山の薫小学校のことだろう。線量が高かった地域の小学校。市長が一番初めに指示した“除染”。その土をどこへ。河内(コウズ)というところにある郡山の産廃処理上に運ぶ計画だった。その処理場の周辺住民は猛反対した。実力阻止も辞さない構えだった。
行き場を失った土はビニールシートに覆われたまま、今でも校庭にあるはず。
岩手、宮城の瓦礫処理の問題は、今日は問わない。言わなくてもわかるはず。
「自分さえ、自分たちさえ良ければいいんだ」。こんな簡単で馬鹿げた言葉が、“力”を持ってきてるような。
今夜も明日も明後日も。テレビはマスコミは政治家の“無意味な言葉”を流すだろう。嫌だけどなるべく見る、聞く。そして耐える。
最後に一言。亭主は言葉狩りをしているのではありません。理非曲直を言っているのです。
2012年9月14日金曜日
2012年9月13日木曜日
「顔」について
それが伝えるべきニュースなのかどうかは判断の分かれるところでしょうが。
またもや「政治屋」さん達が連日テレビに登場してきました。
総裁選、代表選候補者。「大阪」に“都落ち”した陣笠・・・。
どれを見ても、これを見ても、碌な顔をしていない。人品骨柄、これ顔に現れると言いますから。
世間一般でもそうだけど、人は「顔」で判断します。好き嫌い、善悪、もろもろ含め。
「40歳になったら男は顔に責任を持て」なんて言われたもんです。要は顔に、表情にその人の人柄含めて、すべてが現れるからということでしょうか。
すでにして、そのとってつけたような言辞ともども、権力を目指そうとする人達の顔に飽き飽き。そろってほざく。「私が日本を立て直す」。無理です。そう本当に思っているとしたら勘違いも甚だしい。
3・11後、テレビで連日のようにいろんな人の顔を見てきました。総理大臣はじめ、官房長官や、保安院の広報担当。
一時は常連だった学者さん達。なんか、みんな嫌な顔をしていた・・・。
そしてほとんど顔が見えなかった東電の社長さん達。
そして政治家さんやマスコミさんは言う。「選挙の顔」が必要だと。この「顔」って、いわば人気取りってことでしょ。だから民主の一部は真紀子にまで触手を伸ばし、自民党は進次郎にまで秋波を送った。
この人達の顔もそうだけど、「信を置ける顔」って誰なんだい。
テレビは怖い。どんな顔をした人が伝えているかってことが大きな要素になる。
アナウンサーやキャスター。これもほとんど居ないね。信を置ける顔の人って。
その人が読んでいるだけで、そのニュースの価値が下がるような感覚になる顔のアナウンサーもいる。
表情や語り口含めて、「うん、こいつはいいな」と思えるのはNHK仙台の津田喜章アナウンサーだけか。自らも“被災者”である。
彼の目線は、完全に被災者目線だと感じる。
去年以来、彼が担当している「被災者の声」という“番組”には訴える力があったと。
人は、「顔」で判断される。どんな顔をした人が言っているのか。それによって伝わり方も、その内容の印象も変わる。
「顔」の見えない、どこのだれだかがわからない人達が言いたい放題の「顔が見えないネット」って嫌だ。
顔が見えない人の言辞に翻弄されている人達は哀れだ。
テレビが映す顔のどれがいい?。苦しみや悲しみを笑顔に変えようとしている被災者たちの顔がいい。男も女も。とくに年寄りの顔がいい。なぜなら・・・「嘘をついていない」から。
政治屋さん達の顔には「嘘」が透けて見えている。気づかないのは本人だけ。
顔から一番遠いところは・・・。地球を一周させた自分の背中。
男の背中、親の背中と言う。単なるロマンかもしれないが。親の背中を見て子は育つという。物を語らない背中が、一番物を語っているという。
テレビは一回やって見たら。政治家さん達に後ろを向いて貰い、背中比べを。
他人のことを言っている場合じゃない。亭主の背中は・・・。はい、完全に背筋は曲がり、背骨は歪んでおりまする。
顔は・・・。ネットではこのブログ含めて全面公開しておりまする。ただ、それはいずれも数年前の写真にしかすぎませんが。
またもや「政治屋」さん達が連日テレビに登場してきました。
総裁選、代表選候補者。「大阪」に“都落ち”した陣笠・・・。
どれを見ても、これを見ても、碌な顔をしていない。人品骨柄、これ顔に現れると言いますから。
世間一般でもそうだけど、人は「顔」で判断します。好き嫌い、善悪、もろもろ含め。
「40歳になったら男は顔に責任を持て」なんて言われたもんです。要は顔に、表情にその人の人柄含めて、すべてが現れるからということでしょうか。
すでにして、そのとってつけたような言辞ともども、権力を目指そうとする人達の顔に飽き飽き。そろってほざく。「私が日本を立て直す」。無理です。そう本当に思っているとしたら勘違いも甚だしい。
3・11後、テレビで連日のようにいろんな人の顔を見てきました。総理大臣はじめ、官房長官や、保安院の広報担当。
一時は常連だった学者さん達。なんか、みんな嫌な顔をしていた・・・。
そしてほとんど顔が見えなかった東電の社長さん達。
そして政治家さんやマスコミさんは言う。「選挙の顔」が必要だと。この「顔」って、いわば人気取りってことでしょ。だから民主の一部は真紀子にまで触手を伸ばし、自民党は進次郎にまで秋波を送った。
この人達の顔もそうだけど、「信を置ける顔」って誰なんだい。
テレビは怖い。どんな顔をした人が伝えているかってことが大きな要素になる。
アナウンサーやキャスター。これもほとんど居ないね。信を置ける顔の人って。
その人が読んでいるだけで、そのニュースの価値が下がるような感覚になる顔のアナウンサーもいる。
表情や語り口含めて、「うん、こいつはいいな」と思えるのはNHK仙台の津田喜章アナウンサーだけか。自らも“被災者”である。
彼の目線は、完全に被災者目線だと感じる。
去年以来、彼が担当している「被災者の声」という“番組”には訴える力があったと。
人は、「顔」で判断される。どんな顔をした人が言っているのか。それによって伝わり方も、その内容の印象も変わる。
「顔」の見えない、どこのだれだかがわからない人達が言いたい放題の「顔が見えないネット」って嫌だ。
顔が見えない人の言辞に翻弄されている人達は哀れだ。
テレビが映す顔のどれがいい?。苦しみや悲しみを笑顔に変えようとしている被災者たちの顔がいい。男も女も。とくに年寄りの顔がいい。なぜなら・・・「嘘をついていない」から。
政治屋さん達の顔には「嘘」が透けて見えている。気づかないのは本人だけ。
顔から一番遠いところは・・・。地球を一周させた自分の背中。
男の背中、親の背中と言う。単なるロマンかもしれないが。親の背中を見て子は育つという。物を語らない背中が、一番物を語っているという。
テレビは一回やって見たら。政治家さん達に後ろを向いて貰い、背中比べを。
他人のことを言っている場合じゃない。亭主の背中は・・・。はい、完全に背筋は曲がり、背骨は歪んでおりまする。
顔は・・・。ネットではこのブログ含めて全面公開しておりまする。ただ、それはいずれも数年前の写真にしかすぎませんが。
2012年9月12日水曜日
義捐金はどこへ行った・・・
去年、3・11後。数日後からは世の中は「義捐金」に沸いた。多くの善意の。
災害関係の催しでは、必ず義捐金箱が置かれ、各メディアはこぞって義捐金を呼び掛けた。タレントまで動員して・・・。
それはその後の台風災害や大雨災害でもあった。
義捐金の大方は日赤に集められる。それを配分委員会というところが、各自治体単位で配分する。それが個々に行くはず・・・。
この義捐金の話は、もはやメディアが報じ無くなった「3・11」関係の話題の一つ。
NHKも含めてテレビ・新聞。あれだけ呼びかけて集め、毎日のように幾ら寄せられましたってやっていたのだから、その行方を報じるのも当然の義務だ。
でも報じ無い。関心が無い。
去年の今頃、ここでも書いたけど、配分委員会が機能せず、自治体も機能せず、日赤に眠ったままになっていたような義捐金。総額は定かではないが、3千億円は超えていたはず。
あれから1年半。いきわたったのだろうか・・・。
仮に全部配分が終わり、個々人に行き渡っていたとしても、今では遅すぎるってことじゃないか。一番カネを必要としていたのは去年の今頃。
孫正義の一億円って話もどうなったのだろうか。もはやメディアのネタにならない。
去年、自分たちの生活を切り詰めてでも被災者にと送った義捐金の多く。それがどこに、どう使われたのか。気になっている人もいるだろう。
熱しやすくて冷めやすいっていうのか。ケツを拭かないっていうのか。
配分委員会の在り方含め、この国の「システム」の弱さが露呈されているような。
そして関心は、カネに関して言えばだが、復興予算なるものの配分や、取り分に移っている。
先日のNHKスペシャル。「追跡 復興予算十九兆円」。
「復興は進んでいない。お金は一体どこに使われているのか。」今、被災地から切実な悲鳴があがっている。
大震災後、被災地復興のためつぎ込まれる巨額の“復興予算”。
増税を前提につぎ込まれることになった“復興予算”はいったいどのように流れ、使われているのか。
番組は“巨額のマネー”の行方を追い、その実態を徹底検証。
NHKの番宣のコピー。番組を見て驚愕した。その金は、およそ被災地とは関係ないところに回され、使われている。
予算付けをしたのは役所。そこに政治家が陰に陽に“介在”している。番組ではそこまで言ってないが。
貰う方も貰う方。その予算の「性質」を知っていながら、便乗する。なんとかかんとかの名目つけて。
この国の統治機構は完全に狂っている。
予算とは税金で作られるもの。
だから消費税増税反対と短絡的につなげたくはないが。何にしても被災地は、原発被害地は金が欲しいのだ。必要としているのだ。働く場所が欲しいのだ。
善意が善意として機能しない。税金が目的外使用される。
まるで「目くらまし」のように、政治の世界は外交・防衛・領土を前面に出し、国民の関心をそこに集めようとする。
原発再稼働反対に始まり、原子力安全規制委員会問題に、声をあげる人達の関心は向く。それを正義として。
今、この国の「正義」は、悩み苦しむ人達を蚊帳の外にして、踏み台にして、その議論が交わされているような・・・。
そして、亭主のような口説の徒ではなく、黙々とボランティア活動に専心している人達もいる。あらゆる不条理を体感しながら・・・。彼らはおそらく、「正義」を口にしない・・・。
災害関係の催しでは、必ず義捐金箱が置かれ、各メディアはこぞって義捐金を呼び掛けた。タレントまで動員して・・・。
それはその後の台風災害や大雨災害でもあった。
義捐金の大方は日赤に集められる。それを配分委員会というところが、各自治体単位で配分する。それが個々に行くはず・・・。
この義捐金の話は、もはやメディアが報じ無くなった「3・11」関係の話題の一つ。
NHKも含めてテレビ・新聞。あれだけ呼びかけて集め、毎日のように幾ら寄せられましたってやっていたのだから、その行方を報じるのも当然の義務だ。
でも報じ無い。関心が無い。
去年の今頃、ここでも書いたけど、配分委員会が機能せず、自治体も機能せず、日赤に眠ったままになっていたような義捐金。総額は定かではないが、3千億円は超えていたはず。
あれから1年半。いきわたったのだろうか・・・。
仮に全部配分が終わり、個々人に行き渡っていたとしても、今では遅すぎるってことじゃないか。一番カネを必要としていたのは去年の今頃。
孫正義の一億円って話もどうなったのだろうか。もはやメディアのネタにならない。
去年、自分たちの生活を切り詰めてでも被災者にと送った義捐金の多く。それがどこに、どう使われたのか。気になっている人もいるだろう。
熱しやすくて冷めやすいっていうのか。ケツを拭かないっていうのか。
配分委員会の在り方含め、この国の「システム」の弱さが露呈されているような。
そして関心は、カネに関して言えばだが、復興予算なるものの配分や、取り分に移っている。
先日のNHKスペシャル。「追跡 復興予算十九兆円」。
「復興は進んでいない。お金は一体どこに使われているのか。」今、被災地から切実な悲鳴があがっている。
大震災後、被災地復興のためつぎ込まれる巨額の“復興予算”。
増税を前提につぎ込まれることになった“復興予算”はいったいどのように流れ、使われているのか。
番組は“巨額のマネー”の行方を追い、その実態を徹底検証。
NHKの番宣のコピー。番組を見て驚愕した。その金は、およそ被災地とは関係ないところに回され、使われている。
予算付けをしたのは役所。そこに政治家が陰に陽に“介在”している。番組ではそこまで言ってないが。
貰う方も貰う方。その予算の「性質」を知っていながら、便乗する。なんとかかんとかの名目つけて。
この国の統治機構は完全に狂っている。
予算とは税金で作られるもの。
だから消費税増税反対と短絡的につなげたくはないが。何にしても被災地は、原発被害地は金が欲しいのだ。必要としているのだ。働く場所が欲しいのだ。
善意が善意として機能しない。税金が目的外使用される。
まるで「目くらまし」のように、政治の世界は外交・防衛・領土を前面に出し、国民の関心をそこに集めようとする。
原発再稼働反対に始まり、原子力安全規制委員会問題に、声をあげる人達の関心は向く。それを正義として。
今、この国の「正義」は、悩み苦しむ人達を蚊帳の外にして、踏み台にして、その議論が交わされているような・・・。
そして、亭主のような口説の徒ではなく、黙々とボランティア活動に専心している人達もいる。あらゆる不条理を体感しながら・・・。彼らはおそらく、「正義」を口にしない・・・。
2012年9月11日火曜日
きょう、ボクはあらためて祈る
酷暑の中、稲穂は黄金色となり、頭を垂れるようになりました。郡山の新米、コシヒカリの収穫はまだ先、来月下旬になりそうです。全袋検査、食卓に上がるには時間がかかりそうです。
きょうは9月11日です。あのアメリカの9・11です。あの「破壊の映像」をまさか忘れてはいないでしょう。
そして、忌まわしい3・11から丁度1年半です。決して忘れることのできないあの日。
きょうは祈りの日にしたい。
突然命を失った、流された1万8千人の以上の人達の死に。流浪の民のようになった多くの人達に日々が、それでも、いくらか平穏であることを祈りたいのです。
警戒区域に指定されている、富岡、双葉、大熊、浪江。お盆の時期を過ぎた今も、一時帰宅の人が絶えない。楢葉の道の駅に設けられた“検問所”には、朝早くから、“住民”が来る。墓参りのために。先祖の墓であり、ペットの墓でもあるという。
祈りの為に。祈るために。
積算線量計と一緒に空間線量計も渡す。「家にいる時もつけていてください」と。その人は静かに答える。「家は流されちまって、無いんだけど・・・」。
祈りの場に、そこを選ぶ。いや、祈る場所はそこしかないのだから。
たぶん、今日も、多くの祈りが捧げられていることだろう・・・。
祈り。いろいろな意味があります。五穀豊穣を願った祈りもあります。祭祀。祈りは願いであり、祭りでもある。
事務所の机の側に、農民作家だった松永伍一さんが書いてくれた書がかかっています。
「折々を 天に謝して生きる」。
祈りの言葉だと思っています。
宮沢賢治が妹、とし子の死に読んだ詩。永訣の朝。その一節。
おまへがたべるこのふたわんのゆきにわたくしはいまこころからいのるどうかこれが兜率(とそつ)の天の食に変ってやがておまへとみんなとに聖い資糧をもたらすことをわたくしのすべてのさいわひをかけてねがふ
願いは祈りなのだ。
たまたま今日は塾の日に重なりました。3・11後も共に泣き、共に語らってきた仲間達。
映画“無人地帯”の話をしようと思っています。なぜなら、あの映画には、一つの「祈り」が込められているような気がするから。
元テレビ屋としての見方を話し、テレビが何を伝えてきたかも含め。そして、映画の中で語られていた言葉の、問い掛けのさまざまについて、映画がなぜ道祖神を撮ったのか、信仰の対象だったかもしれない、いや、日常の中にあった神社への参拝、仏が刻まれた石が発するメッセージも。
「見ることは信じること」という西洋の格言についても。
信じるとは人の言と書けり。故に、信(まかす)と読むなり。
古僧の言をまたまた引き合いに出しながら。人の言が、これ以上悪しざまにならないことを祈る。
東京と大阪では、政争という名の、人呼んで“祭り”が繰り広げられている。その祭りには本来意味する「祀り」「祈り」の観念は無い。揶揄しての“祭り”。
彼れらが発する「政策」というものの数々。そこにはもはや、「福島」はない。原発政策と言う長期的国家目標としてのお題目はあっても。「東北復興」という言葉も無い。
過ぎたこととして扱われているような。
それがどれくらいの真意であり、信念であったのかはわからないが、「福島にやるべきことがあある」。そう言って、代表選を降りた細野に、いささかなりとも信を置く。
きょうは9月11日です。あのアメリカの9・11です。あの「破壊の映像」をまさか忘れてはいないでしょう。
そして、忌まわしい3・11から丁度1年半です。決して忘れることのできないあの日。
きょうは祈りの日にしたい。
突然命を失った、流された1万8千人の以上の人達の死に。流浪の民のようになった多くの人達に日々が、それでも、いくらか平穏であることを祈りたいのです。
警戒区域に指定されている、富岡、双葉、大熊、浪江。お盆の時期を過ぎた今も、一時帰宅の人が絶えない。楢葉の道の駅に設けられた“検問所”には、朝早くから、“住民”が来る。墓参りのために。先祖の墓であり、ペットの墓でもあるという。
祈りの為に。祈るために。
積算線量計と一緒に空間線量計も渡す。「家にいる時もつけていてください」と。その人は静かに答える。「家は流されちまって、無いんだけど・・・」。
祈りの場に、そこを選ぶ。いや、祈る場所はそこしかないのだから。
たぶん、今日も、多くの祈りが捧げられていることだろう・・・。
祈り。いろいろな意味があります。五穀豊穣を願った祈りもあります。祭祀。祈りは願いであり、祭りでもある。
事務所の机の側に、農民作家だった松永伍一さんが書いてくれた書がかかっています。
「折々を 天に謝して生きる」。
祈りの言葉だと思っています。
宮沢賢治が妹、とし子の死に読んだ詩。永訣の朝。その一節。
おまへがたべるこのふたわんのゆきにわたくしはいまこころからいのるどうかこれが兜率(とそつ)の天の食に変ってやがておまへとみんなとに聖い資糧をもたらすことをわたくしのすべてのさいわひをかけてねがふ
願いは祈りなのだ。
たまたま今日は塾の日に重なりました。3・11後も共に泣き、共に語らってきた仲間達。
映画“無人地帯”の話をしようと思っています。なぜなら、あの映画には、一つの「祈り」が込められているような気がするから。
元テレビ屋としての見方を話し、テレビが何を伝えてきたかも含め。そして、映画の中で語られていた言葉の、問い掛けのさまざまについて、映画がなぜ道祖神を撮ったのか、信仰の対象だったかもしれない、いや、日常の中にあった神社への参拝、仏が刻まれた石が発するメッセージも。
「見ることは信じること」という西洋の格言についても。
信じるとは人の言と書けり。故に、信(まかす)と読むなり。
古僧の言をまたまた引き合いに出しながら。人の言が、これ以上悪しざまにならないことを祈る。
東京と大阪では、政争という名の、人呼んで“祭り”が繰り広げられている。その祭りには本来意味する「祀り」「祈り」の観念は無い。揶揄しての“祭り”。
彼れらが発する「政策」というものの数々。そこにはもはや、「福島」はない。原発政策と言う長期的国家目標としてのお題目はあっても。「東北復興」という言葉も無い。
過ぎたこととして扱われているような。
それがどれくらいの真意であり、信念であったのかはわからないが、「福島にやるべきことがあある」。そう言って、代表選を降りた細野に、いささかなりとも信を置く。
2012年9月10日月曜日
人の為せる業・・・
きのう、沖縄はじめ全国各地で、国会議事堂の界隈も含めて多くの人が集まった。
オスプレ配備反対集会。
オスプレイの沖縄配備計画は10年以上も前からあった。米軍の極東安全保障戦略にとっては欠かせない“装備”として。
辺野古への移転計画も、その大本はオスプレイの配備。辺野古なら、V字滑走路なら、もし事故を起こしても被害は少ない。普天間では事故が起きたら米軍基地の存在そのものが問われる。
なぜオスプレイにこだわるのか。たぶん、アメリカの兵器産業の“利権”が絡んでいるからだと推察する。
オスプレイになぜ反対するのか。事故を起こす可能性が高いからという。確かに事故は多かった。そして、その事故の原因は「人為的ミス」と結論付けられた。
最近もノースカロライナ州で不時着事故を起こしている。パイロットは操縦不能だったと言っている。
なぜ、日米双方とも「人為的ミス」という結論を急ぐのか。機体の設計ミスとは言わない。
だから、さっきも書いた。軍需産業が、そこの大きな力を持って絡んでいるから。
いくら訓練をしても、教育をしても、人為的ミスは起きる。いや、むしろ人為的ミスの方が怖い。機体の改良は出来ても、人の改良は不可能なのだ。人はしょせん人だから。
研究者や専門家が英知を絞って作り上げた“兵器”。それは作れた、開発できたけれど、それの扱いはもう人知が及ばないものなっているという現在のあまりにも皮肉な現実。
そう、原発事故がそうだった。あの大爆発を起こしたのも人為的ミス、その後のあらゆる対応の間違いもすべて人為的ミス。
人為的ミスという言い訳が通ると思っている日米担当者のこの甘さ。
人為。まさに、人の為せること。人の為すこと。
それは得てして人を危険に陥れる。人の為にならない悪さをする。
明日はあの忌まわしい日から丁度1年半。ツイッター上では、相も変わらぬデマがふりまかれ、悪者探しに狂奔している人がおり。
“偽善”の言辞も飛び交い、自慢話に花が咲き。自分が書いた本の宣伝に明け暮れる“有名人”。
ツイッター。SNS。現代人が手にした、ある意味、目下の最大の文明。パソコンや携帯からとめどなく発せられる愚昧な日本語の数々。
我々が手にした、手にしている“文明”とは一体何なのか。このネット文明とやらは、人々に幸せをもたらすどころか、恐怖心をあおり、人々の心を離散させ、人のこころをむしばんでいる。もちろん、すべてのツイートがそうだと「一括り」にはしないが。
見ていると時々思う。タスイッター離れをしていた人達がかなりいることに気づく。3・11後に「参画」した人達の言辞は険しい。
「3・11」は、多くの人為的ミスを露呈し、その後のネットは、新たな「人為的ミス」をおかそうとしているかのような。
心ある人と思った、いや、事実そうだった人も数人、ツイッターから“脱落”した。彼を“是”としたい。
原子炉を人間は制御出来なかった。放射能がそうであったように、その時の風向きに左右された飛散。人が為している言葉の数々が、その時の風向きで「ミス」という呼び名にも値いしないように被害を与えているということ。
これらすべての事どもを、柳に風と受け流していく心境にはなれない。塾でさんざん説いてきた。メディアリテラシーということを。それは多くが既存メディアについてだった。
ネットにも、ネットに参画するにも、やはりリテラシー能力が求められるのか。
またも大きな難問を抱えてしまった。「ネットの功罪」。
降ると見ば 積もらぬ咲きに払えかし 雪には折れぬ青柳の枝
蒲生氏郷の辞世に因んだ句。ネットから繰り出される、降り落ちる「言葉」の数々。
払うすべは・・・・。青柳になるしかないのか。
オスプレ配備反対集会。
オスプレイの沖縄配備計画は10年以上も前からあった。米軍の極東安全保障戦略にとっては欠かせない“装備”として。
辺野古への移転計画も、その大本はオスプレイの配備。辺野古なら、V字滑走路なら、もし事故を起こしても被害は少ない。普天間では事故が起きたら米軍基地の存在そのものが問われる。
なぜオスプレイにこだわるのか。たぶん、アメリカの兵器産業の“利権”が絡んでいるからだと推察する。
オスプレイになぜ反対するのか。事故を起こす可能性が高いからという。確かに事故は多かった。そして、その事故の原因は「人為的ミス」と結論付けられた。
最近もノースカロライナ州で不時着事故を起こしている。パイロットは操縦不能だったと言っている。
なぜ、日米双方とも「人為的ミス」という結論を急ぐのか。機体の設計ミスとは言わない。
だから、さっきも書いた。軍需産業が、そこの大きな力を持って絡んでいるから。
いくら訓練をしても、教育をしても、人為的ミスは起きる。いや、むしろ人為的ミスの方が怖い。機体の改良は出来ても、人の改良は不可能なのだ。人はしょせん人だから。
研究者や専門家が英知を絞って作り上げた“兵器”。それは作れた、開発できたけれど、それの扱いはもう人知が及ばないものなっているという現在のあまりにも皮肉な現実。
そう、原発事故がそうだった。あの大爆発を起こしたのも人為的ミス、その後のあらゆる対応の間違いもすべて人為的ミス。
人為的ミスという言い訳が通ると思っている日米担当者のこの甘さ。
人為。まさに、人の為せること。人の為すこと。
それは得てして人を危険に陥れる。人の為にならない悪さをする。
明日はあの忌まわしい日から丁度1年半。ツイッター上では、相も変わらぬデマがふりまかれ、悪者探しに狂奔している人がおり。
“偽善”の言辞も飛び交い、自慢話に花が咲き。自分が書いた本の宣伝に明け暮れる“有名人”。
ツイッター。SNS。現代人が手にした、ある意味、目下の最大の文明。パソコンや携帯からとめどなく発せられる愚昧な日本語の数々。
我々が手にした、手にしている“文明”とは一体何なのか。このネット文明とやらは、人々に幸せをもたらすどころか、恐怖心をあおり、人々の心を離散させ、人のこころをむしばんでいる。もちろん、すべてのツイートがそうだと「一括り」にはしないが。
見ていると時々思う。タスイッター離れをしていた人達がかなりいることに気づく。3・11後に「参画」した人達の言辞は険しい。
「3・11」は、多くの人為的ミスを露呈し、その後のネットは、新たな「人為的ミス」をおかそうとしているかのような。
心ある人と思った、いや、事実そうだった人も数人、ツイッターから“脱落”した。彼を“是”としたい。
原子炉を人間は制御出来なかった。放射能がそうであったように、その時の風向きに左右された飛散。人が為している言葉の数々が、その時の風向きで「ミス」という呼び名にも値いしないように被害を与えているということ。
これらすべての事どもを、柳に風と受け流していく心境にはなれない。塾でさんざん説いてきた。メディアリテラシーということを。それは多くが既存メディアについてだった。
ネットにも、ネットに参画するにも、やはりリテラシー能力が求められるのか。
またも大きな難問を抱えてしまった。「ネットの功罪」。
降ると見ば 積もらぬ咲きに払えかし 雪には折れぬ青柳の枝
蒲生氏郷の辞世に因んだ句。ネットから繰り出される、降り落ちる「言葉」の数々。
払うすべは・・・・。青柳になるしかないのか。
2012年9月9日日曜日
「身の程をわきまえる」ということ
京都の竜安寺のつくばいに下のような“言葉”が彫られています。真中の四角は口です。
時計周りに読めば「吾、唯、足るを知る」。
「足るを知る」。この言葉をどう読みとるかはいく様にもあるかもしれません。何が足りているのかは書いてありませんから。
去年の塾で、この「言葉」を引き合いに出して、文明災ともいえる原発事故や、被災者のことについて話し合いました。
この言葉を「身の丈」「身の程しらず」という言葉に置き換えてみます。
映画“無人地帯”の余韻がまだ残っています。その映画のナレーションの一節。
「日本は農民の国だった。だが、今は違う。近代日本は西洋文明を受け入れ、世界は人間のためにだけ存在すると思った。そして、原子力を選び、今は扱い切れていない。もはや農民の国ではない・・・」。そんなフレーズ。
原子力発電というのは、経済成長のための、豊かさを思い求めた故の帰結として生まれた人災。なんども言いますが。
身の丈にあっていない、身の程知らずの生活を求めた結果なのかと。
山口県に祝島という人口500人ほどの島があります。かつてその島の、海を挟んだ4キロ先の本州に原発の計画がもちあがりました。漁業補償金はとりあえず10億円。島民は、それを拒否し、建設計画はとん挫しているといいます。
多くの島民の考え方、海と山があれば生きていける。でも、その環境を失うことがあったら島はどうにもならない。
これ以上豊かになって失うことがあれとすれば今のままがいい。身の丈にあった暮らしを選んだ。
「人間も動植物と同じ。自然の中の一つ。身の程をわきまえて暮らすのがいい」。その島で養豚をしている人の言葉。
海と山、それに農地。それがことごとく奪われたような福島、相双地区。映画の中で、そこの住民、いや住民だった人が静かに語っていました。
「昔はとにかく貧しくてな、この地区は。そこへ、ほら、あの、堤なんとかっていう人が来て、高い値段で土地を買いあさってさ、そこに原発建てちまった・・・」。
堤なんとか、そう西武グループの総帥。そこが土地を買占め、正力松太郎の政治力は加わって、不毛の土地は豊かになった。雇用は生まれた。出稼ぎに行かなくてもよくなった。
電源三法によって多額の交付金が落とされ、東電からは寄付金がばらまかれた・・・。
川内村に住み、自然と暮らし、モリアオガエルの生態を見ながら、原発にも常に留意し、調べ続けてきた作家、鐸木能光、3・11後に書いた「裸のフクシマ」の著者。彼は言う。「シャブ漬けにされてしまった」と。そして、賠償問題などで、再びシャブ漬けが起きていると指摘する。
彼の言葉を借りるなら、シャブ漬けにされたのは、身の丈をわきまえず、足ることを知ろうとしなかったこの国のありようの犠牲者だった相双の人達とも・・・。
五尺以上はある身体を三尺に縮めるようにしての避難生活の日々。それが身の丈にあった暮らしと言えるのか。
地方政治の長である人間が、その人気にあやかってか、いや、維新の志士を気取ってか、国の統治者になろうとしている。それは身の丈にあったことか・・・。
国政に携わってはいるけれど、とてもじゃない、そんな器量を持ち合わせていない人間が、うまくいけば・・内閣総理大臣の地位を獲得しようとしている。それを「身の程知らず」と謗るのは簡単だが・・・。
「足るを知る」をテーマにした塾のあとの車座談議。そこで飲みほした酒の量は身の丈にあっていたのかどうか・・・。誰も泥酔はしていなかった。
時計周りに読めば「吾、唯、足るを知る」。
「足るを知る」。この言葉をどう読みとるかはいく様にもあるかもしれません。何が足りているのかは書いてありませんから。
去年の塾で、この「言葉」を引き合いに出して、文明災ともいえる原発事故や、被災者のことについて話し合いました。
この言葉を「身の丈」「身の程しらず」という言葉に置き換えてみます。
映画“無人地帯”の余韻がまだ残っています。その映画のナレーションの一節。
「日本は農民の国だった。だが、今は違う。近代日本は西洋文明を受け入れ、世界は人間のためにだけ存在すると思った。そして、原子力を選び、今は扱い切れていない。もはや農民の国ではない・・・」。そんなフレーズ。
原子力発電というのは、経済成長のための、豊かさを思い求めた故の帰結として生まれた人災。なんども言いますが。
身の丈にあっていない、身の程知らずの生活を求めた結果なのかと。
山口県に祝島という人口500人ほどの島があります。かつてその島の、海を挟んだ4キロ先の本州に原発の計画がもちあがりました。漁業補償金はとりあえず10億円。島民は、それを拒否し、建設計画はとん挫しているといいます。
多くの島民の考え方、海と山があれば生きていける。でも、その環境を失うことがあったら島はどうにもならない。
これ以上豊かになって失うことがあれとすれば今のままがいい。身の丈にあった暮らしを選んだ。
「人間も動植物と同じ。自然の中の一つ。身の程をわきまえて暮らすのがいい」。その島で養豚をしている人の言葉。
海と山、それに農地。それがことごとく奪われたような福島、相双地区。映画の中で、そこの住民、いや住民だった人が静かに語っていました。
「昔はとにかく貧しくてな、この地区は。そこへ、ほら、あの、堤なんとかっていう人が来て、高い値段で土地を買いあさってさ、そこに原発建てちまった・・・」。
堤なんとか、そう西武グループの総帥。そこが土地を買占め、正力松太郎の政治力は加わって、不毛の土地は豊かになった。雇用は生まれた。出稼ぎに行かなくてもよくなった。
電源三法によって多額の交付金が落とされ、東電からは寄付金がばらまかれた・・・。
川内村に住み、自然と暮らし、モリアオガエルの生態を見ながら、原発にも常に留意し、調べ続けてきた作家、鐸木能光、3・11後に書いた「裸のフクシマ」の著者。彼は言う。「シャブ漬けにされてしまった」と。そして、賠償問題などで、再びシャブ漬けが起きていると指摘する。
彼の言葉を借りるなら、シャブ漬けにされたのは、身の丈をわきまえず、足ることを知ろうとしなかったこの国のありようの犠牲者だった相双の人達とも・・・。
五尺以上はある身体を三尺に縮めるようにしての避難生活の日々。それが身の丈にあった暮らしと言えるのか。
地方政治の長である人間が、その人気にあやかってか、いや、維新の志士を気取ってか、国の統治者になろうとしている。それは身の丈にあったことか・・・。
国政に携わってはいるけれど、とてもじゃない、そんな器量を持ち合わせていない人間が、うまくいけば・・内閣総理大臣の地位を獲得しようとしている。それを「身の程知らず」と謗るのは簡単だが・・・。
「足るを知る」をテーマにした塾のあとの車座談議。そこで飲みほした酒の量は身の丈にあっていたのかどうか・・・。誰も泥酔はしていなかった。
2012年9月8日土曜日
「一括り」と「分断」と
福島―。いま、大方の世間は、一括りで言う。福島と。
「福島県産の野菜は、果物は」「福島に暮らすとは」「福島県人は」・・・。
「福島を応援しよう」「福島に寄り添おう」・・・。
140文字のツイッターのせいか。大方の事を一括りにして語ることが流行りのような。
なんだろう、、、。
それは、県人とて同じ。その傾向が強い。一括りの方が語りやすいからか。
一括りで語られる福島とは、“汚染”されたという一括りの概念の結語。
福島は一つではありません。汚染されたとこもされていないところも。人の考え方も生き方も。
今起きている政治問題も、社会問題も、えてして一括りで語られている。語り得るはずもないのに。短絡的になったこの国ということか。
映画“無人地帯”の中で、ぐちゃぐちゃに壊れた自宅の前にたたずむ老夫婦が語っていた。
「同じ避難所の中でもな、住んでいたところが100メートル違うだけで、あっちの賠償金はいくら、こっちは幾らって、言い争いのようなことになるんだよな。困ったもんだ」と。
「一つになろう」。だれもそれに異存は無い。しかし、一つになれない現実。
何かの事象があった時、それは、どこの国であろうとも、日本のどこであろうとも、なかなか一つにはなれない。
飯舘村の菅野村長は言う。2年で帰ろう。そう言って村を一つにしようと腐心した結果・・。
「分断の連続だ。家族の中で違う。線量の高いところと低いところとでも違う。帰りたい人、帰りたくない人でも違う。放射能は心の分断を作っているのです」。
飯舘村だけではない。県内のあちこちで起きている分断現象。それを体感している日々。
分断の連鎖の中で生きているということ。それは、被害者の誰が悪いとか良いとかいうことではなく。
分断に悩みきっている福島県人。それを一括りでは語ってほしくないという思い。
政党も「分断」されている。いや、すでに「分断」されていた。
分断は3・11の大地震、大津波によるものだけだろうか・・・。
国も分断されている。「瓦礫処理」の例をみれば明白。富めるものと貧しきもの。
墨粋会書展に出品されていた歌詞の書き写し。
「皆が手と手を合わせれば、なにか出来る、何か出来る・・」。古いものが新しい。
「福島県産の野菜は、果物は」「福島に暮らすとは」「福島県人は」・・・。
「福島を応援しよう」「福島に寄り添おう」・・・。
140文字のツイッターのせいか。大方の事を一括りにして語ることが流行りのような。
なんだろう、、、。
それは、県人とて同じ。その傾向が強い。一括りの方が語りやすいからか。
一括りで語られる福島とは、“汚染”されたという一括りの概念の結語。
福島は一つではありません。汚染されたとこもされていないところも。人の考え方も生き方も。
今起きている政治問題も、社会問題も、えてして一括りで語られている。語り得るはずもないのに。短絡的になったこの国ということか。
映画“無人地帯”の中で、ぐちゃぐちゃに壊れた自宅の前にたたずむ老夫婦が語っていた。
「同じ避難所の中でもな、住んでいたところが100メートル違うだけで、あっちの賠償金はいくら、こっちは幾らって、言い争いのようなことになるんだよな。困ったもんだ」と。
「一つになろう」。だれもそれに異存は無い。しかし、一つになれない現実。
何かの事象があった時、それは、どこの国であろうとも、日本のどこであろうとも、なかなか一つにはなれない。
飯舘村の菅野村長は言う。2年で帰ろう。そう言って村を一つにしようと腐心した結果・・。
「分断の連続だ。家族の中で違う。線量の高いところと低いところとでも違う。帰りたい人、帰りたくない人でも違う。放射能は心の分断を作っているのです」。
飯舘村だけではない。県内のあちこちで起きている分断現象。それを体感している日々。
分断の連鎖の中で生きているということ。それは、被害者の誰が悪いとか良いとかいうことではなく。
分断に悩みきっている福島県人。それを一括りでは語ってほしくないという思い。
政党も「分断」されている。いや、すでに「分断」されていた。
分断は3・11の大地震、大津波によるものだけだろうか・・・。
国も分断されている。「瓦礫処理」の例をみれば明白。富めるものと貧しきもの。
墨粋会書展に出品されていた歌詞の書き写し。
「皆が手と手を合わせれば、なにか出来る、何か出来る・・」。古いものが新しい。
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