2012年9月10日月曜日

人の為せる業・・・

きのう、沖縄はじめ全国各地で、国会議事堂の界隈も含めて多くの人が集まった。
オスプレ配備反対集会。

オスプレイの沖縄配備計画は10年以上も前からあった。米軍の極東安全保障戦略にとっては欠かせない“装備”として。
辺野古への移転計画も、その大本はオスプレイの配備。辺野古なら、V字滑走路なら、もし事故を起こしても被害は少ない。普天間では事故が起きたら米軍基地の存在そのものが問われる。

なぜオスプレイにこだわるのか。たぶん、アメリカの兵器産業の“利権”が絡んでいるからだと推察する。

オスプレイになぜ反対するのか。事故を起こす可能性が高いからという。確かに事故は多かった。そして、その事故の原因は「人為的ミス」と結論付けられた。
最近もノースカロライナ州で不時着事故を起こしている。パイロットは操縦不能だったと言っている。

なぜ、日米双方とも「人為的ミス」という結論を急ぐのか。機体の設計ミスとは言わない。
だから、さっきも書いた。軍需産業が、そこの大きな力を持って絡んでいるから。

いくら訓練をしても、教育をしても、人為的ミスは起きる。いや、むしろ人為的ミスの方が怖い。機体の改良は出来ても、人の改良は不可能なのだ。人はしょせん人だから。

研究者や専門家が英知を絞って作り上げた“兵器”。それは作れた、開発できたけれど、それの扱いはもう人知が及ばないものなっているという現在のあまりにも皮肉な現実。

そう、原発事故がそうだった。あの大爆発を起こしたのも人為的ミス、その後のあらゆる対応の間違いもすべて人為的ミス。

人為的ミスという言い訳が通ると思っている日米担当者のこの甘さ。

人為。まさに、人の為せること。人の為すこと。
それは得てして人を危険に陥れる。人の為にならない悪さをする。

明日はあの忌まわしい日から丁度1年半。ツイッター上では、相も変わらぬデマがふりまかれ、悪者探しに狂奔している人がおり。
“偽善”の言辞も飛び交い、自慢話に花が咲き。自分が書いた本の宣伝に明け暮れる“有名人”。

ツイッター。SNS。現代人が手にした、ある意味、目下の最大の文明。パソコンや携帯からとめどなく発せられる愚昧な日本語の数々。

我々が手にした、手にしている“文明”とは一体何なのか。このネット文明とやらは、人々に幸せをもたらすどころか、恐怖心をあおり、人々の心を離散させ、人のこころをむしばんでいる。もちろん、すべてのツイートがそうだと「一括り」にはしないが。

見ていると時々思う。タスイッター離れをしていた人達がかなりいることに気づく。3・11後に「参画」した人達の言辞は険しい。
「3・11」は、多くの人為的ミスを露呈し、その後のネットは、新たな「人為的ミス」をおかそうとしているかのような。

心ある人と思った、いや、事実そうだった人も数人、ツイッターから“脱落”した。彼を“是”としたい。

原子炉を人間は制御出来なかった。放射能がそうであったように、その時の風向きに左右された飛散。人が為している言葉の数々が、その時の風向きで「ミス」という呼び名にも値いしないように被害を与えているということ。

これらすべての事どもを、柳に風と受け流していく心境にはなれない。塾でさんざん説いてきた。メディアリテラシーということを。それは多くが既存メディアについてだった。
ネットにも、ネットに参画するにも、やはりリテラシー能力が求められるのか。

またも大きな難問を抱えてしまった。「ネットの功罪」。

降ると見ば 積もらぬ咲きに払えかし 雪には折れぬ青柳の枝

蒲生氏郷の辞世に因んだ句。ネットから繰り出される、降り落ちる「言葉」の数々。
払うすべは・・・・。青柳になるしかないのか。

“チェルノブイリ”異聞

  ロシアがウクライナに侵攻し、またも多くの市民、日常が奪われて行く。 ウクライナという言葉、キエフという言葉、チェルノブイリ・・・。 そう、あの最大の原発事故を起こした地名の幾つか。 「チェルノブイリ原発事故」。1986年4月26日。 ウクライナの北部にあるその...