2012年9月11日火曜日

きょう、ボクはあらためて祈る

酷暑の中、稲穂は黄金色となり、頭を垂れるようになりました。郡山の新米、コシヒカリの収穫はまだ先、来月下旬になりそうです。全袋検査、食卓に上がるには時間がかかりそうです。

きょうは9月11日です。あのアメリカの9・11です。あの「破壊の映像」をまさか忘れてはいないでしょう。

そして、忌まわしい3・11から丁度1年半です。決して忘れることのできないあの日。

きょうは祈りの日にしたい。

突然命を失った、流された1万8千人の以上の人達の死に。流浪の民のようになった多くの人達に日々が、それでも、いくらか平穏であることを祈りたいのです。

警戒区域に指定されている、富岡、双葉、大熊、浪江。お盆の時期を過ぎた今も、一時帰宅の人が絶えない。楢葉の道の駅に設けられた“検問所”には、朝早くから、“住民”が来る。墓参りのために。先祖の墓であり、ペットの墓でもあるという。
祈りの為に。祈るために。

積算線量計と一緒に空間線量計も渡す。「家にいる時もつけていてください」と。その人は静かに答える。「家は流されちまって、無いんだけど・・・」。

祈りの場に、そこを選ぶ。いや、祈る場所はそこしかないのだから。

たぶん、今日も、多くの祈りが捧げられていることだろう・・・。

祈り。いろいろな意味があります。五穀豊穣を願った祈りもあります。祭祀。祈りは願いであり、祭りでもある。

事務所の机の側に、農民作家だった松永伍一さんが書いてくれた書がかかっています。
「折々を 天に謝して生きる」。
祈りの言葉だと思っています。

宮沢賢治が妹、とし子の死に読んだ詩。永訣の朝。その一節。

おまへがたべるこのふたわんのゆきにわたくしはいまこころからいのるどうかこれが兜率(とそつ)の天の食に変ってやがておまへとみんなとに聖い資糧をもたらすことをわたくしのすべてのさいわひをかけてねがふ

願いは祈りなのだ。

たまたま今日は塾の日に重なりました。3・11後も共に泣き、共に語らってきた仲間達。

映画“無人地帯”の話をしようと思っています。なぜなら、あの映画には、一つの「祈り」が込められているような気がするから。

元テレビ屋としての見方を話し、テレビが何を伝えてきたかも含め。そして、映画の中で語られていた言葉の、問い掛けのさまざまについて、映画がなぜ道祖神を撮ったのか、信仰の対象だったかもしれない、いや、日常の中にあった神社への参拝、仏が刻まれた石が発するメッセージも。

「見ることは信じること」という西洋の格言についても。

信じるとは人の言と書けり。故に、信(まかす)と読むなり。
古僧の言をまたまた引き合いに出しながら。人の言が、これ以上悪しざまにならないことを祈る。

東京と大阪では、政争という名の、人呼んで“祭り”が繰り広げられている。その祭りには本来意味する「祀り」「祈り」の観念は無い。揶揄しての“祭り”。

彼れらが発する「政策」というものの数々。そこにはもはや、「福島」はない。原発政策と言う長期的国家目標としてのお題目はあっても。「東北復興」という言葉も無い。
過ぎたこととして扱われているような。

それがどれくらいの真意であり、信念であったのかはわからないが、「福島にやるべきことがあある」。そう言って、代表選を降りた細野に、いささかなりとも信を置く。

“チェルノブイリ”異聞

  ロシアがウクライナに侵攻し、またも多くの市民、日常が奪われて行く。 ウクライナという言葉、キエフという言葉、チェルノブイリ・・・。 そう、あの最大の原発事故を起こした地名の幾つか。 「チェルノブイリ原発事故」。1986年4月26日。 ウクライナの北部にあるその...