2012年9月8日土曜日

「一括り」と「分断」と

福島―。いま、大方の世間は、一括りで言う。福島と。
「福島県産の野菜は、果物は」「福島に暮らすとは」「福島県人は」・・・。

「福島を応援しよう」「福島に寄り添おう」・・・。
140文字のツイッターのせいか。大方の事を一括りにして語ることが流行りのような。
なんだろう、、、。

それは、県人とて同じ。その傾向が強い。一括りの方が語りやすいからか。

一括りで語られる福島とは、“汚染”されたという一括りの概念の結語。

福島は一つではありません。汚染されたとこもされていないところも。人の考え方も生き方も。

今起きている政治問題も、社会問題も、えてして一括りで語られている。語り得るはずもないのに。短絡的になったこの国ということか。

映画“無人地帯”の中で、ぐちゃぐちゃに壊れた自宅の前にたたずむ老夫婦が語っていた。
「同じ避難所の中でもな、住んでいたところが100メートル違うだけで、あっちの賠償金はいくら、こっちは幾らって、言い争いのようなことになるんだよな。困ったもんだ」と。

「一つになろう」。だれもそれに異存は無い。しかし、一つになれない現実。

何かの事象があった時、それは、どこの国であろうとも、日本のどこであろうとも、なかなか一つにはなれない。

飯舘村の菅野村長は言う。2年で帰ろう。そう言って村を一つにしようと腐心した結果・・。
「分断の連続だ。家族の中で違う。線量の高いところと低いところとでも違う。帰りたい人、帰りたくない人でも違う。放射能は心の分断を作っているのです」。

飯舘村だけではない。県内のあちこちで起きている分断現象。それを体感している日々。

分断の連鎖の中で生きているということ。それは、被害者の誰が悪いとか良いとかいうことではなく。

分断に悩みきっている福島県人。それを一括りでは語ってほしくないという思い。

政党も「分断」されている。いや、すでに「分断」されていた。

分断は3・11の大地震、大津波によるものだけだろうか・・・。

国も分断されている。「瓦礫処理」の例をみれば明白。富めるものと貧しきもの。

墨粋会書展に出品されていた歌詞の書き写し。

「皆が手と手を合わせれば、なにか出来る、何か出来る・・」。古いものが新しい。

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