あの時以来、子供たちは本音では何を感じ、何を思っているのだろう。
一見、無邪気そうに遊んでいる子供にしても、「あの時」のことや、それ以降のしばらくの事を聞くとあまり答えない。逆に口を閉ざす。
テレビを見ていて何を思っているのだろう。大人たちの会話や行動を見ていて何を感じているのだろう。
接しているこどもたちは、なにか、親の事を、親が言うことに敏感に反応しているように見えて。
口にはしないことを書かせると、書くと、鋭いことを書く。言う。
見て拾った言葉。
「絵をかいて、あの日を思ったかなしき夜」
「ほうとうは、自分自身を助けたい」。
小学校4年生の文章です。震災、津波、原発事故を経験した。
「家が建てられ、街の形が整えば復興になる。それは違います。全ての人がつながり、温かい思いがあふれるような未来になること。それが本当の復興だと僕は思うのです」。
警戒区域から避難しているこどもの言葉。中学生です。
タウン誌の座談会に参加した時、真の復興とは精神の復興だと喋ってきました。
その気配が今のこの国に見られないから。
すでにして、カネと欲と自己保身に身をやつす人達が主流を占めているようだから。体裁を取り繕うことの執心している人がほとんどだから。
そんな事を子供たちはとっくに見抜いている。
もしかしたら、あの日やあの出来事は、その後の事どもは、かえって立派な子供を作ったのかもしれないと。
逆境の方が子供は立派に育つのかもしれないと。
郡山の子供たちも普通に学校に通い、幼稚園に通っています。家の周りでボール遊びに余念がありません。
「横断歩道を渡るときは気をつけて、交通事故に気をつけてくださいね」。そんなお手紙をもって、きのう近所の子供たちがきてくれました。しばらく家の中ではしゃいで、しゃべって帰っていきました。
“憂国の士”を気取る大人たちは、ネットで安部晋三の“カツカレー”で盛り上がり、あげく新聞社のビルに入っているレストランのカレーの値段を比較し。
テレビのワイドショーキャスターもそれを話題にし。その値段を。
「あんらのギャラではその何倍もの値段のカレーが食える」。それを殊更話題に
することなのか。
ついに大手新聞社も“参戦”。カツカレーをめぐるコラムまで組む始末。
この国は“貧困”だ。貧困なるがゆえに、3,500円のカレーを問題視するのか。そのことを云々すると言うこと自体、日本人の一部が精神的貧困に陥っているってことじゃないのか。
帰り際、子供たちが言っていた。「今夜のウチのご飯はカレーだよ。お母さんが作ったカレーだよ」。嬉しそうだった。
かれらが、10年後、20年後、「あの日のあの事」をどう語るのか。「今の世がどんな世の中なのか」。敢えて教えないでおきます。彼らなりの感受性できちんと受け止めていると思うから。
大人が教えたことが全てではない。彼らが体験し、感じたことを、彼らの言葉として発するはずだから。
子供たちが突くバスケットボールの音と笑い声が窓の外から聞こえてくる日曜日・・・。