2012年9月14日金曜日

「言葉」について

昼のテレビニュースで、自民党の総裁選候補者が、なにやら大声で言っていた。喋っていた。誰が何を言ったのか。何も伝わってこない。なぜか。そこには「言葉の力」が無いから。力とは大声を言うのではない。本当の自分をさらけ出し、心に響くものがあってこそ、人に伝わるものだから。
多言を弄している。でも伝わらない。なぜか。それは、それらの言葉がある意味“荒唐無稽”であり、その場しのぎの“ウソ”であることを皆見抜いているから・・・。

政治家は言論の府に身を置くものである。たとえば、本会議の演壇に立って、古い言葉だけれど、「声涙ともに下る」演説をしてこそ、政治家の真価が問われた。洋の東西を問わず。歴史に残る名演説、名言があった。たとえば、リンカーンの独立宣言、ケネディの就任演説・・・。

決してアジテーターとしての評価では無い。

日本の政治家の言語力は著しく低下している。それは、国語教育がおろそかにされてきたせいだろうか。世相に迎合している故なのだろうか。

「政治生命をかけて」「全身全霊、身をとして」。もういいよ、そんなお言葉の羅列は。

例えば書道家、書道にいそしむ人たち。文字にされた言葉を書く。与えられた文字を模写しているだけか。もしそうならば、それを見た人に何ほどのものが伝わるのか。上手いだけでは伝わらない。
それが、与えられた言葉であったとしても、その意味を理解し、自分の中で、その言葉を生んだ人の心中を察し、咀嚼し、墨の筆に万感の思いを込めて、そこに自分の感情を込めながら、ぶつける。

見られるものは、見るに値するようなものにしなければならない。

政治家の言語力の低下、貧困。

昨日、麻生太郎が言った言葉に「私の渡世では・・・」と言うのがあった。その後に仁義というのがあったかどうかはしらないが。少なくとも渡世という、いわばヤクザ言葉を政治家が公に使うのはいかがかと。この「いかがかと」、これも、政治家が常用する曖昧語。あえてそれを・・・。

石原伸晃が「サティアン」と言った。そのテレビ番組は確かに見ていた。
「原発事故後、郡山に行きました。校庭に剥がされた土が積んでありました。そのまま放置してはいけない。東電の原発のサティアンに持っていくべきだ」。
そんな要旨。

サティアン。それはオウム事件で“有名”になった名称。“化学兵器”を作っていたところ。いわば”オウム“の悪の象徴。それになぞらえるとは・・・。忌まわしい言葉を引き合いに出すとは。サティアン、それのもともとの意味は聖地。

ノブテル発言にミノモンタも、毎日新聞のヨラ記者も、その他のコメンテーターも何も反応しない、しなかった。なぜだ。

ノブテルは元日本テレビの記者。勘違いでしたという言い訳で済ませようとする卑怯さ。その言をなんとも思っていないようなTBSの番組。

「テレビの合わせ鏡」のように見える。


ノブテルが言った校庭の汚染表土。郡山の薫小学校のことだろう。線量が高かった地域の小学校。市長が一番初めに指示した“除染”。その土をどこへ。河内(コウズ)というところにある郡山の産廃処理上に運ぶ計画だった。その処理場の周辺住民は猛反対した。実力阻止も辞さない構えだった。

行き場を失った土はビニールシートに覆われたまま、今でも校庭にあるはず。

岩手、宮城の瓦礫処理の問題は、今日は問わない。言わなくてもわかるはず。

「自分さえ、自分たちさえ良ければいいんだ」。こんな簡単で馬鹿げた言葉が、“力”を持ってきてるような。

今夜も明日も明後日も。テレビはマスコミは政治家の“無意味な言葉”を流すだろう。嫌だけどなるべく見る、聞く。そして耐える。

最後に一言。亭主は言葉狩りをしているのではありません。理非曲直を言っているのです。

“チェルノブイリ”異聞

  ロシアがウクライナに侵攻し、またも多くの市民、日常が奪われて行く。 ウクライナという言葉、キエフという言葉、チェルノブイリ・・・。 そう、あの最大の原発事故を起こした地名の幾つか。 「チェルノブイリ原発事故」。1986年4月26日。 ウクライナの北部にあるその...