2013年1月7日月曜日

「東北」から日本を変える

潮という月刊誌の広告。猪瀬直樹特別寄稿。「東京」から日本を変える。とあった。眼を凝らした、見なおした。やはり「東京」だった。

違うだろう。「東北」じゃないのかと。

作家猪瀬直樹は評価に値する人だと思っている。ミカドの肖像含め、何冊かの著作物を読んできたが、なかなか読みごたえのあるものだった。

東京都副知事としても、評価に値する実績を積んでいたと思う。いい例が地下鉄の駅の壁をとっぱらったこと。

おととし、そう、もうおととしなのだ。2011年の夏、福島県知事のあまりのもの不甲斐無さにあきれ、県議などと、県知事に猪瀬を担ごうやと持ちかけてみた。一笑に付されたが。彼らも県知事には大いなる不満を持ちながらも、身の回りでの狭い範囲での選択しかできないことを知った。

そして猪瀬は都知事に。慎太郎との関係といい、大阪の人との関係といい、どこか違和感を感じ始めていた。

ボクが入ったことがある東京都庁舎は鍛冶橋にあった狭い建物だった。いつに間にか新宿のバベルの塔に移っていた。

鍛冶橋から見える東京の景色と、新宿の高層ビルから見おろす東京の景色は大きく違うのだと思う。

その「潮」という雑誌を買ってまで読む気にはなれないが、なんで、どうして、「東京」から日本を変えるのだろう。どういう風に変えようと言うのだろう。
もう十分、東京は日本を変えて来た。東京によって東北は変えられてきた。

東京から日本を変える。なんか思いあがった発想のように響く。

ならば我々も思いあがろう。そして宣言しよう。「東北」から日本を変えると。

今の東北、少なくとも、被災地3県、いや、青森も含まれようか。その現状は、まさに日本の縮図なのだ。良い意味でも、悪い意味でも、この国が抱えている、それは精神文化まで含めて、東北を見詰めれば判然としてくるはず。

原発といい、生産拠点といい、安い労働賃金といい、人的資源といい、多くのものが、まるで「貢物」のように東京に差し出されている。

震災後、書いたと思う。「東北独立宣言」というのを。井上ひさしの著作を引き合いに。

NHKの「八重の桜」でおだってるんじゃねえよ。福島県人よ。東京駅の物産品売り場の名前に、八重のなんとかって名前変更するなよ。東京におもねるなよ。

会津藩の物語は戊辰戦争だけではないのだ。斗南藩移封が語られるべきなのだ。
3・11以降の福島を語る上では。

今の東北の姿は、もしかしたら10年後の日本の姿かもしれない。キミ、それに耐えうるや。

東北から日本を変える。そんな若者を期待する。それを輩出させねばならない。
それが今の「東北学」だ。

福島県は自由民権運動の発祥の地、それを唱えた人の生誕の地であったということ。

2013年1月6日日曜日

「年賀状」について

年賀状は、奇しくも、2011年元旦をもって「失礼させていただきます」と挨拶させていただいています。年齢の区切りを故として。

首を回らせば七十有余年         人間の是非看破に飽きたり         
 往来の跡は幽かなり深夜の雪           一炷の線香古窓の下

良寛の句を拝借した最後の賀状でした。もっとも、付けくわえておきました。
人間(じんかん)の是非は問い続けると。

中学生の頃、先生と友達に出した10枚くらいの年賀状。気がついて見たら、長年のお付き合いが増え、2,000枚くらいになっていました。

お恥ずかしい話し、とてもじゃない、費用が・・・。葉書代、印刷代。で、意を決して年始の挨拶欠礼とした次第です。

でも、去年も、今年も、百枚以上の賀状を戴きました。嬉しいものです。懐かしい人も、消息を知りたかった人もそれぞれありで。

もし、おととし、「欠礼」を言っていなかったら、去年はなんと書いたでしょう。きっと書けなかったか、およそ「賀」には相応しくない文言が並べられていたでしょう。

やはり去年は書かなかった、書けなかったであろう郡山のタウン誌の編集長から今年は賀状を貰いました。

「年の始めの御挨拶を申し上げます。あの震災以降、身体の中のオクノオクの方で何かが固まってしまい、ここに来て想うのは“あ~疲れた”。前に進もうにもやる気が起きず、こうなったら今年は飲んで踊ってのびるまで楽しく過ごして行こうと思っています」。こう書かれてありました。

同じ感情なのです。そうなんです。身体の奥に、頭の奥に「何かが固まってしまっている」のです。解きほぐせないのです。溶けないのです。

風邪のような体調の変異も、まるで体内で固まってしまっているように解けてくれないのです。

解けようが解け無かろうが、「人間の是非は看破していかねばならない」とあらためて肝に銘じています。

良寛の「偈」の背くようですが。

郡山に来たのが昭和63年の夏。郡山で初めて書いて出した賀状の日付は1989年元旦。

そこにはこう記していました。

秋、東京に無い本当の空を見ました。
冬、凍てつく舗道を踏んでいます。吾妻下ろしの寒風に向かって歩いています。
春、・・・・・・

まさに、今年の春も「・・・・・・」なのかと。「・・・・・」を文字で埋めねばならないと覚悟しています。

戴いた賀状にはきちんと返事を出します。その作業が待っています。どんな思いを綴り、近況をなんと書くか。悩ましいですが。

2013年1月5日土曜日

「本音を言わない首相」を戴くということ

本音と建前、人はそれをうまく使い分けながら生きているのだと思う。なかなか使い分けが難しい問題だが。ま、処世術ってとこでしょうか。

正月休みも明けて、政界も本格始動とマスコミは書く。たしかに動き始めた様子。

だけど、被災地の人たちの本音。「あんたら休んでる場合じゃないよ」ってことか。

タカとかハトとか、保守とかリベラルとか、右とか左とか。もう、時代としては、例えば政党や政権を、そんな画一的な言葉で色分けする時代ではないと思う。もう、色分けする基準は無いに等しいのだから。

思想的な色分けはバブル崩壊と共に消滅したような気さえするのだが。
例えば反原発が左で、推進が右という思想的色分けも、現実に即していないと思うのだが。

改憲問題含め、安倍政権は、選挙期間中の言辞を持って「右寄り」「超保守」と言われた。靖国問題も教科書問題も、原発政策も・・もろもろ含めて。

きのう伊勢神宮を参拝したあとの記者会見。安倍は「ソフト路線を打ち出した」と書かれる。たしかに改憲には触れず、原発についても検討と述べるにとどめ、経済成長を高々と打ちだす。

それを以ってして、マスコミや関係者は「安全運転」と評する。持論を言う事が「危険運転」だとするかのように。
なぜ「安亜鉛運転」なのか。参院選を睨んでだと言う。

屁理屈を言うようだが、あげ足を取るようだが、持論を展開すれば参院選は負けるからということになる。改憲や原発など、有権者がそれを危惧しているということになるからか。ならば、今度の選挙で安倍自民党が“勝った”のも、彼の持論を有権者が必ずしも「是」としたということではないということになる。

伝えられる安倍の「ソフト路線」。まさに本音ではないはず。当たり障りが少ないようなどっちつかずの建前論。

衣の下に鎧という怖れをいだきながら我々は彼を戴き、暮らしていくということになる。参院選、おそらく自民がまた“勝つ”であろう。
その暁には鎧が飛び出してくるということか。

改憲について一言。前文にある四つの言葉。それが大好きだ。
「専制と隷従、圧迫と偏狭」を地上から永遠に除去しようとつとめる国際社会において、名誉ある地位を占めたいとおもう。

自民党の改憲草案なるものを見た。そこには、内容もさることながら「美しい日本語」は存在していないということ。“意味不明”の言葉が羅列しているとしか見えなかったこと。

建前と本音。双葉町の井戸川町長が「帰還は30年」と言い切った。除染に限りなく疑問を呈しながら。彼の本音なのか、建前なのか。測りかねる。30年先、それは、事実上、その場所にあったままの「町」は無いに等しいと思われるのだが。

双葉に限らず、警戒区域に指定されている町村の住民は言う。「帰りたい」と。
本音と建前で彼らも揺れている。「帰れない」と言った時の周りの反応を気にする。諦めを伴った本音を語ることの戸惑い・・・。

歳月の経過は「福島」をより難しい、困惑と疑心暗鬼と何らかの決断を迫られる、新たな困難を生みだしている。誰もが解決策を持ち合わせていないだけで。

2013年1月4日金曜日

「除染」に群がる輩

被災地はどこまでも“食い物”にされる。金儲けの手段とされる。官と産が一体となって。政は、その「現実」を知っていながら見て見ぬふりをしている。
そんな現実を改めて突き付けられた今日の朝日新聞の記事。「除染」を巡る。

一面と、いわゆる社会面を飾った記事。見出しを列挙する。
手抜き除染横行。回収した土、川に投棄。
これで除染か。洗浄水垂れ流し/漂う無力感・・・。

取材は楢葉町、飯舘村、田村市の一部で行われたという。写真や動画付きだから、事実だと思う。

除染が「国家プロジェクト」として始まった去年から、その作業の発注先や、効果などについて、すでに多くの疑問や疑念が出されていた。それらが、杞憂で無く実際だったということ。

警戒区域や立ち入り禁止区域、それの隣接する区域の除染は、すべて大手のゼネコンに発注されている。前田建設、大日本土木、大成建設、大林組、鹿島など。

総額6、500億円にのぼる環境庁所管の国家プロジェクト。そこでは、現場では、“契約通り”の除染作業は行われず、「手抜き」が横行していたという事実。
剥いだ土や木の葉は、川に投棄されていた。それを指示していたのが「現場監督」。社員か元請けかはいざしらず。手抜きどころではない。立派な詐欺行為である。

「やっぱりな~」。亭主の感想、そして、今朝ちょっと話した“地元”の人の感想。

新聞は署名入りで書く。「国家プロジェクトへの信頼は崩れた。一日も早く戻りたいと期待する住民にとどまらず、巨額予算を支える国民全体への背信行為だ」と。

郡山市でも2011年から始まって去年一年間、そして今年と、「除染」が市の一大プロジェクトとして進行中である。

市議会議員は言う。「政権が変わったから除染作業は加速しますよ。役人も動きますよ。瀬川さんの家の方も、今年度予算で行われますよ」と。それはそれで歓迎だ。正しく除染作業が行われるのなら。

除染事業に携わっていた人が言う。「高圧洗浄機の除染、あれは意味がないことに気づきましたよ。隣家の壁に付いた水は線量が高くなるし。要するに除染じゃなくて移染です」と。
除染に対する彼の考え方は変わった。

亭主の事務所の隣は、金融業をしていた。いつの間にか社名が変わり、除染業者に変わっていた。どこかの下請けに入っているのだろう。
郡山市はゼネコンだけではなく、市が指定する業者が担当しているはず。地元を中心とした。

そして聞く。「除染で儲かった」という業者の話を。

だから、朝日新聞が書いた除染の「インチキ」。いまさら驚くことではない。予想されたことだから。しかし、現実を突き付けられるとやはり愕然とする。
金儲けのための食い物にされていることの。

それがこの国の形なのだと。

たまたま数日前、郡山にロケに来た映画監督と出会う事が出来た。そして、この除染の「インチキさ」について熱くかたりあったばかりだったから。

手抜きやインチキをしないで、地元の業者にカネが落ちるのならそれは結構。しかし、今は、最早、今行われている手法は役に立たない除染だということがはっきりし出しているということ。
東京に本社を置くゼネコンがカネを持っていく、しかも数多くの「ピンはね」があって。まさに原発の構図と同じ。原発はどこまでも「ピンはね」の構図で成り立っている。

朝日新聞よ、ここまで書いたのなら徹底的に書けよ。あばけよ。環境省の知らんぷりを糾弾しろよ。政治に目を向かせろよ。
「モラル欠如の問題だけじゃない。山間部から市街地まで一律に除染して元の暮らしを取り戻すという政府の構想は非現実的だ。これは今の除染の行き詰まりを示す重要なサインである。ゼネコン任せの除染が住民のニーズに合うか。巨額予算の使い方として妥当なのかどうか。現実に即した在り方を政治が決断する時だ。アリバイ作りの除染では意味が無い」。新聞はそう書く。その通りだ。
しかし、それを「問題提起」だけで終わらせてしまうのが、マスコミの悪い癖。

マスコミ不信を取り除くために、これからどう書いて、何処を責めて行くか。

なぜ、今、この記事なのか。書かれた視点はどこにあるのか。それらを含めて、この記事の、この現実の受け取り様は、それこそ多様だろうが。

2013年1月3日木曜日

荒れ地を耕す・・・

NHKの大河ドラマは、今年は「八重の桜」。会津藩の家臣山本八重、後の新島八重が主人公のドラマ。白虎隊もそうだった。何故か明治維新に伴う「会津の悲劇」は大河ドラマに使われる。

それに“あやかる”ように、八重に因んだ物が売りに出され、八重の桜をもじったバッジをつけた人があちこちに。

もちろん舞台となった会津若松は福島県である。しかし、会津、イコール福島ではない。だが、どこかで福島の運命と関わるようにも思える。

明治維新。会津藩は、移封されて。斗南藩に。大幅の石高を下げられ。そこは、今の青森県。三沢から北。未開の荒地だった。六ヶ所村、東通村・・・。

会津藩士は、刀を置いて鍬を手にし、その「新たな」領地を開墾した。それしか生きる術がなかったから。

会津藩の重鎮だった広沢安任は、そこに西洋式の牧場を作った。後に明治政府に重用される人物にもなったが。

15年以上も前の話だろうが、当時の東京電力福島事務所長と六ヶ所村の核燃料処理施設を見学に行った。三沢からそこに向かう途中、彼は広沢牧場のことから始まって、斗南藩の辛酸を語っていた。
そこに興味があった亭主は、途中、広沢牧場に立ちよりたいと言い、所長はそれを快諾してくれた。

彼も、ボクも会津藩とは縁もゆかりもない人間だったが。

荒れ地を開墾して、そこに住み着いた会津藩の人達、後に会津の地に戻った人達。

廃藩置県で、会津は福島県に併合される。福島県民と言う立場となる。
その福島県に、再び、荒れ地を耕すという作業が待ち受けていた。歴史のいたずらとは言い難いが。

例えば飯舘村。全村避難。田畑と共に暮らしてきた村民。先祖代々、その暮らしを生業としてきた人達。

福島市郊外に“移住”した人達は、その荒れ地、耕作放棄地を耕した。開墾した。そして農作物を作れるようにした。その“成果”を仮設にいる村の人たちのところに持っていくという。それは、生業とはならない。しかし、農に生きてきた人達は農以外に為す術を知らない・・・。

郡山も、開墾の歴史に成り立った町である。安積開拓。当時の模様は宮本百合子の「貧しき人々の群れ」に詳しい。

一応整備されて市となった郡山。「水と緑の街こおりやま」が、“売り”だった。
その緑が除染で、ことごとく剥がされていく。土くれだけになった公園。
さながら「開墾」を見ているようなさま。

いつになったら「緑」が復活するのか。

でも、まだいい。セイタカアワダチソウが生い茂った警戒区域。立ち入り禁止区域。そこが草花が生い茂り、実りの秋を迎えるような光景は、たぶん、無い。

思いが飛躍する。この国全体が荒れ地なのではないかと。それは国のありようも含めて。

そして、それを“耕す”作業を誰かが、いつの世代かがやらねばならないと言う事。

これも「東北学」の出発点かもしれない。

「となみはん」、そう打ち込んでもボクのパソコンは変換してくれない。斗と打ち南と打つ。その藩はパソコンの世界からも忘れ去られて様な。

2013年1月2日水曜日

「被災地に心を寄せて・・・」

「おととしの東日本大震災にあたっては、多くの人々が被災地に赴き、被災者のために力を尽くされ、心強いことでした。これからも皆で被災地に心を寄せて過ごしていきたいと思います」。
天皇陛下が一般参賀で述べられた言葉。ほっとする、嬉しい言葉だ。
寄り添う、心を寄せる。ずっとそんな言葉を見聞きしてきた。被災地同志では、そこの人達の間にはそれがあった。全国からも多くの寄せられた心があった。

そして、それと同じくらい、少なくとも「福島」を忌避する言辞や行動も見た。勝手に天皇の意志を忖度する。

敢えて「皆で」と言われたことを。皆の中に自分も含めて。そして、年頭にあたり、被災地に言及されて心情を。

そして、寄せられた心に、被災地はどう応えるか。被災地にとっても課題が与えられる。

それは何か。今言えることは「自立」、そして「自律」。国や行政を頼っていても、福島でいかに東電を責めたとて、“前進”にはつながらない。

概略的に言えば、被災地東北は、その歴史の過程が、いわば「お上」(天皇家のことではない)のいいなりになって来たという事。

そして、その「お上」が、あてにならず、あわよくば、これも歴史の過程にあったように、「東北を見捨てる」のではないかという危惧。

見捨てられるよりはこっちから見捨てよう。そしてあらゆる「知慧」を回そう。「お上」を利用してやると言う気概も含めて。

東北には”埋蔵”されているような、さまざまな文化がある。伝統文化が、被災地の人たちに励みを与えた。その文化を発信していくのも一つの在り方。

隠れたような伝統文化が、伝統芸能が、被災地のそこここにある。彼らはそれを「復活」させることで、生きている自分たちを体感出来た。

伝統文化は被災地の人たちのこころに寄り添っていた。そして、その多くが、農耕民族としての誇りと不屈の精神だったということ。

新しい年、福島が始めなければならないこと、やるべきこと、自らの力で立ち上がるべきこと。それらを模索し、実行する年だと。

「あてがいぶち」のような復興策では無く。

水と緑の都市といわれた郡山からも、除染作業によって、日々、「緑」が削られていく。剥ぎ取られていく。

2週間ほど後の皇居の歌会始め。天皇、皇后両陛下がどんな歌を詠まれるのか。寄り添った心が、どういう歌となって表現されるのか。

心待ちにしている。

2013年1月1日火曜日

そして時の扉が・・・

それぞれの人が、それぞれの記憶を刻んだ一年。それぞれの歴史が作られた一年。一瞬の時をまたいで、それは、新しい年となった。

この一年は何だったのか。昨夜、扉が問いかけてきた。時の扉が。
答えを探したー。
「いろいろ考えた一年でした」と答える。「いろいろとは何だ」。扉の問いは鋭い。
「何も変わらなかった一年でした」と答えてみる。「変わらないのはキミが変わろうとしなかったからではないか」。扉の問いに容赦はない。

「新しい年に向かう扉を開けてもいいですか」と扉に聞く。
「開けてごらん。何か見えるかな」。

恐る恐る扉を押す。音も無く開いた扉。
そこには霧しか見えない・・・。

夢の中の“扉”との会話。まどろむボクにまとわりついていた霧。霧が耳もとで囁いていた。
「キミは眠ってなんかいない。いや、寝てはいけないのだ。私の中を見てごらん」。問いかけは執拗だ。

見えないものを見ようとする。見るべきものを見て来なかったボクへの叱責。

でも、見えない。見えないから考える。そこにあるのは絶望だろうか、希望だろうかと。

そう、僕たちは一年前も、扉の向こうに希望があると願った。そして希望を探した。でも、何も変わっていなかった・・・。
見つけられなかった希望。では、そこにあったのは絶望か。希望も絶望も時が決めるものではない。人が決めるものだ。

霧の中に絶望しか見えなかったとしても、それを凝視しよう。眼力(めじから)を持って見つめれば、霧の中に一条の灯りが、希望と言う明かりが見えてくるかもしれない。霧の中に、扉に吸い込まれるように、踏み出す一歩・・・。

たった一晩で、暦が替わり、去年(こぞ)今年となることへの違和感は今も消えない。

あの日は、一瞬にして来て、一瞬にして多くのものを変えていったのに。

今年も何やら書き綴っていきます。日替わりメニューの“定食”のように。お客様各位のご交誼、よろしくお願い申し上げます。

亭主謹白にて。

“チェルノブイリ”異聞

  ロシアがウクライナに侵攻し、またも多くの市民、日常が奪われて行く。 ウクライナという言葉、キエフという言葉、チェルノブイリ・・・。 そう、あの最大の原発事故を起こした地名の幾つか。 「チェルノブイリ原発事故」。1986年4月26日。 ウクライナの北部にあるその...