NHKの大河ドラマは、今年は「八重の桜」。会津藩の家臣山本八重、後の新島八重が主人公のドラマ。白虎隊もそうだった。何故か明治維新に伴う「会津の悲劇」は大河ドラマに使われる。
それに“あやかる”ように、八重に因んだ物が売りに出され、八重の桜をもじったバッジをつけた人があちこちに。
もちろん舞台となった会津若松は福島県である。しかし、会津、イコール福島ではない。だが、どこかで福島の運命と関わるようにも思える。
明治維新。会津藩は、移封されて。斗南藩に。大幅の石高を下げられ。そこは、今の青森県。三沢から北。未開の荒地だった。六ヶ所村、東通村・・・。
会津藩士は、刀を置いて鍬を手にし、その「新たな」領地を開墾した。それしか生きる術がなかったから。
会津藩の重鎮だった広沢安任は、そこに西洋式の牧場を作った。後に明治政府に重用される人物にもなったが。
15年以上も前の話だろうが、当時の東京電力福島事務所長と六ヶ所村の核燃料処理施設を見学に行った。三沢からそこに向かう途中、彼は広沢牧場のことから始まって、斗南藩の辛酸を語っていた。
そこに興味があった亭主は、途中、広沢牧場に立ちよりたいと言い、所長はそれを快諾してくれた。
彼も、ボクも会津藩とは縁もゆかりもない人間だったが。
荒れ地を開墾して、そこに住み着いた会津藩の人達、後に会津の地に戻った人達。
廃藩置県で、会津は福島県に併合される。福島県民と言う立場となる。
その福島県に、再び、荒れ地を耕すという作業が待ち受けていた。歴史のいたずらとは言い難いが。
例えば飯舘村。全村避難。田畑と共に暮らしてきた村民。先祖代々、その暮らしを生業としてきた人達。
福島市郊外に“移住”した人達は、その荒れ地、耕作放棄地を耕した。開墾した。そして農作物を作れるようにした。その“成果”を仮設にいる村の人たちのところに持っていくという。それは、生業とはならない。しかし、農に生きてきた人達は農以外に為す術を知らない・・・。
郡山も、開墾の歴史に成り立った町である。安積開拓。当時の模様は宮本百合子の「貧しき人々の群れ」に詳しい。
一応整備されて市となった郡山。「水と緑の街こおりやま」が、“売り”だった。
その緑が除染で、ことごとく剥がされていく。土くれだけになった公園。
さながら「開墾」を見ているようなさま。
いつになったら「緑」が復活するのか。
でも、まだいい。セイタカアワダチソウが生い茂った警戒区域。立ち入り禁止区域。そこが草花が生い茂り、実りの秋を迎えるような光景は、たぶん、無い。
思いが飛躍する。この国全体が荒れ地なのではないかと。それは国のありようも含めて。
そして、それを“耕す”作業を誰かが、いつの世代かがやらねばならないと言う事。
これも「東北学」の出発点かもしれない。
「となみはん」、そう打ち込んでもボクのパソコンは変換してくれない。斗と打ち南と打つ。その藩はパソコンの世界からも忘れ去られて様な。