もう20年も前か。郡山に「李白の会」というのがあった。ごく少人数の集まり。主宰は奥羽大学の教授。
ただ、珍味を肴に銘酒を飲み、放歌高吟とまでは行かないまでも、大いに論じる集まりだった。
二次会に行く。その会場まで歩く。会場の主が玄関で待っている。
「いらっしゃい、お待ちしていました。李白の会が杜甫でくる・・ですな」。杜甫と徒歩をかけた軽妙なセリフ。それをネタに二次会がまた盛り上がる・・・。
その光景を昨夜夢で見た。亡くなった教授も登場していた。杜甫の句を皆で歌っていた。
国破れて山河あり 城春にして草木深し
時に感じては花にも涙をそそぎ
別れを恨んで鳥にも心を驚かす
ほう火三月に連なり 家書万金にあたる
白頭掻けばさらに短く 渾て簪に勝えざらんと欲す
大震災後、折に触れて使われていた詩。そして、今の警戒区域の“光景”を歌ったかのようにも思える。
確かに、現政権は被災地復興に意を用いているように見える。しかし、その反面で、経済成長戦略を次々と、これでもかと言わんばかりに打ち出し、またしても「豊かな国」を目指して、坂の上の雲を追い求めているようにも見える。
急騰する株価に往時を夢見る人も多い。
杜甫には申し訳ないが、この詩を読み変えたい。「国栄えて山河無し」と。
山は放射性物質で汚染された。木を切ることが除染だとされる。手抜き除染で、川は汚されている。いや海までもかもしれない。
“汚染”されて川であっても、そこに戻って来て溯上する鮭の姿に心を驚かす。
東北人の魂の一つ。それは先祖や亡くなった人たちの霊との対話の問題がある。父祖の地とは即ち墓のあるところ。山に上った先祖の魂が降りてくるのが水をたたえた田畑、川・・・。だから「ふるさと」のこだわるのだと言う事。
100年前の言葉を借りる。足尾銅山事件。それと対峙した田中正造の言葉。
「真の文明は水を荒さず、川を荒さず、村を破らず、人を殺さざるべし」。
すでに、この国では、新しい文明を求めて、いや、開発された新しい文明に、それは地球規模で群がりはじめている。
そしてあらためて思う。原発とは真の文明だったのかと。
今を予見すらしていなかったのは自明だが、先人の言は今を見通していたような。
またも妄想、妄言の類か。とうの昔に解散した李白の会の旧メンバーと今宵は会う予定。