2013年1月25日金曜日

「責任」という言葉の意味

重い、重い、重いのだ。日揮の事件。あらゆる意味で。

政府は犠牲者の名前を公表した。専用機が帰国したことを区切りだとして。それがすでにマスコミの「取材力」によって既知のこととなってはいるのに。
公表にあたって官房長官は言った。
「政府の責任のもとに、公表するに至った」と。会見の詳報はしらない。テレビのニュースで知り得ただけ。中継時、時を合わせたように日揮の社長の会見も行われていた。

我々は、その「氏名」と「年齢」を知りたかったのだろうか。そして“遺族”の悲しみに暮れる声を聞きたかったのだろうか。
それを知り得ることに、我々市井の者に何の意味があるのだろうか。

思い出す。3・11後のこと。テレビは被害にあった現場の状況を伝えるだけでなく、避難所に行った人達の名前を伝え、知り得る限りで、犠牲者の姓名を伝えた。
テレビは「伝言板」になり、家族や知人の安否確認の有力な手段になった。
「ここいいます」、そうフリップに書いて、通信機能がマヒした中での家族や知人に向けての安否を伝えるという、おそらくデジタル化されたテレビの中にあって、初めて取られた手法。

その後の“過剰取材”については語らないが。

かつて多発していた航空機事故。航空会社から乗客名簿を手にいれることに腐心した。乗っていたであろう家族の安否を知る方法はメディアに頼る以外に無かったから。

今度の事件。家族はその安否について既に知っていた。家族はそれを親戚、友人、知人に伝えた。それでいいのじゃないか。見知らぬ人がその名前を知ると言うこと。そこに何があるのか・・・。

「政府の責任のもとに」。その責任とは何を指すのか。今後起こり得る過剰取材についてのことか。その「責任」という言葉の意味がわからない。それが何を指すのかを聞いた記者はいたのかどうか。
責任。重い言葉である。にもかかわらずそれが乱発され、それを言うことで、それを追及するだけで事足れりという風潮。

福島を含め、被災地で、これまで何度「政府の責任に於いて」という言葉を耳にしたことだろう。その場しのぎの“責任”。その責任は誰も果たしてはいない。

そして我々は“責任”という言葉の中にある“いかがわしさ”に気づいてしまった。

しばらくは遺族周辺の取材が続くだろう。やがて「手記を」という依頼がいくかもしれない。

もし、仮に、ボクが報道の対象になるような死に方をしても、ボクはどうさらされてもいい。でも家族にだけは取材に行って欲しくない。つくづくそう思う。

氏名公表というマスコミの要求はかなった。

次に行こう。それは我々が最もわからないことの解明、報道。
日揮が行っていた事業は何だったのか。それは誰のために、なぜこんな事件が起きたのか。その克明な報道。さらに進めば「液化天然ガスと世界のエネルギー事情との問題」。そして何よりもこの武装勢力というものが存在し、その標的に日本人がされたという問題。
そしてアルジェリアという国を取り巻く近隣の国の問題、そこに介在する英国やフランスの問題。

もし、今度の犠牲者の死を無駄にしないというなら、現地入りも含めて、さまざまな角度でのこの問題の真相、そこに横たわる事の全てを。

こう書くとメディアの矛先はまずアルジェリア政府や軍部に向かうだろう。その責任を追及するだろう。

責任は追及されねばならない。しかし、追及するだけでは問題は解決しないということ。

我々はもう「責任」を口にする為政者に飽き飽きとしているのだ。

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