あの日以来、多くの人々は、あらためて「物の豊かさ」よりも「心の豊かさ」を求めるべきだと気づき始めた。
いや、その前からも気づいてはいたはず。それが顕在化したということか。
「物の豊かさ」、それは経済成長と表裏一体である。バブルの崩壊、リーマンショック。それらを人は“失われた20年”という。
その“失地”を回復すべく、政治は公共投資や減税などで経済再生を図って来たがいずれも身を結ばなかった。財政出動に期待し、規制を求めたり、時には緩和を求めたり。いつしか政府に依存する経済に身を任せていたように思える。
この国は借金まみれである。で在るにもかかわらず、「成長」のためにまだ借金を増やすと言う。日銀には「どんどんお札を刷れ」という。そして、税金を上げる。
ギリシャに追いつこうとしているのか。成長の蜜の味を知った人達は、まるでブレーキの無い車をスピードを上げて走っているような。
テレビをつけてみてください。番組はともかく、CMを見てください。いや、番組もそうか。高級グルメ番組がもてはやされ、どんどん生まれる新商品が紹介される。それは「広告効果」があるからだろう。政治だけでは無い。国を挙げて“成長”を望んでいるのだ。
今更ながらだが、原発は高度経済成長の申し子である。それが多くの家を汚染し、土地を汚染し、森を田畑を汚染した。厳然たる事実。
大津波が一挙に町を村を呑み込んだ。すべてが「破壊」された。厳然たる事実。
人は言う。「経済成長がもたらした豊かさが、それと引き換えに多くの人を不幸に巻き込んだ。これまで通りの豊かで便利な経済成長優先の道を選ぶのか、それともそれを反省し、貧しくてもいい、心豊かな社会へ戻るのかの岐路に立っている」と。
心豊かな社会。それは何を指すのか。どんな形や姿を言うのか。自然との共生。言い古された言葉である。
森が無ければ水は生まれない。単純な自然の成り立ち方である。しかし、もうそれは以前から言われていたことではあるものの、成長の証としての「開発」は軒並み森を壊した。そして福島の一部の森は汚染されてしまった。切ることさえもおぼつかないような規模の。
「貧しくても心豊かな社会」という。しかし、貧しさが原発を誘致させた。貧しい日々を心豊かな物と出来るのだろうか。
経済成長によって味わった“麻薬”。それが有害だと気づいて、それを罪悪だとしながらも、やはり麻薬から抜け出せない。
激しい競争社会である東京で、心豊かな生活とは何を指すのか。自然を奪われた人達は、どこに豊かさを見いだせるのか。仮設の生活の中に心の豊かさを見つけることが出来るのか。
心豊かな社会の羅針盤を誰が描けるのか。それを目指さなければならない事は分かっていても、その有り様が見つからない。
それが「災後」に言われた、変わることだったとしても、それを拒否はしないし、変わろうとしているものの、それの具体的方途を示せる人は多分いないのではないかと。
堂々巡りのような思考回路がこの国に渦まいているような。
束の間の株価の上下に一喜一憂しているこの社会の「実相」。「成長無くして日本の再生はなし」。そんなフレーズがやがてまた生まれてくる予感。
早く見つけたい「心豊かな国」への道しるべ。