2013年1月26日土曜日

「実名」と「匿名」と

アルジェリアの日揮事件。依然として実名、匿名で、いろんな見解や言辞が飛び交っている。

どうもマスコミの人達はなんか大義名分、その“大義”という言葉の意味も知らないであろう人達が、それを掲げて、まさに自家撞着、手前味噌、自己弁護に走っているのが見苦しい。

実名報道を否定するものでは全く無い。実名報道はあって然るべきだ。
しかし、今度の問題は、その事を論ずるケースではない。氏名を公表すべきかどうかという問題。論議を“大義名分”にすり替えるべきではない。

きょうの毎日新聞の社説には驚いた。典型的な手前みその理屈。

政府の公表を評価すると言う。そして、取材は「実名」がないとスタートしないと書く。名前は本人を示す核心だと。

東日本大震災を例にとってくる。2万人もの死者・不明者が出た。だが、数字だけで被害の大きさがリアリティーを持ったのだろうか。そう提起してくる。

対比して論ずる問題ではないのだ。

生き残った人が亡くなった人への思いをメディアなどに具体的に語り、その声が積み重なって訴える力となり、国民が被災地を支える原動力になったのではないだろうか。そうも言う。

この社説は「匿名」である。なんと言う記者で、どういう履歴を持っている人なのかさっぱりわからない。

ボクが知っている限りではメディアに亡くなった家族への思いを語りたいと言ったひとはいない。メディアとの接触を拒んだ人もたくさんいた。

国民が被災地を支える原動力だと。ふざけるな。まるで政治家が何でも国民、国民と言うのに似ている。どんな支えがあり、そえれが今も続いていると思っているのか。現に南相馬市ではボランティア団体が活動を停止した。資金難が主たる理由。国民的支えはどうした。

名前は符号ではない。かけがえのない個人の尊厳を内包するものだ。と書く。
当たり前だ。そんなこと誰でもわかっている。
じゃあ、今度の事件で。氏名と年齢が公表されたことで、いや、公表される前から「独自取材」とやらで、被害者家族の家の前に立ち、その家族が社名を問うと、口を閉ざし、やっとぼそっと言う。毎日です。TBSです。日テレです・・・しかもその場から逃げながら。
そこに死者に対する尊厳はあったのか。

被害者は犯罪者ではない。犯罪者の実名報道と、これを混同すること自体がpかしい。

平易なもの言いだが、記者には野次馬根性と好奇心があっていい。好奇心が出発点でもある。
逃げ隠れするような取材行為。それはメディア人の尊厳を自らが傷つけていることに、その職業人としての「誇り」を捨てていることに他ならない。

「記者である前に人間であれ」。今のマスコミ人はそういう先達の教訓はさずかっていないのか。

こじつけの屁理屈はさらに展開されている。
犠牲者がどんな方々かわかったことで、社会として事件を記憶し、今後の教訓も汲み取って行くことができる。と。現地にいて、身を危険にさらしながらも、職業人としてのプライドを貫いた。それだけでどんな方々だったかは十分だろう。

匿名化が進む社会はどこか息苦しい。生存者の生の声を取材出来る機会を設けよ。そう書き、日揮へ情報開示を迫る。

じゃ言おう。匿名の社説を読まされる読者の方が息苦しいと。そしてなんでもかんでも日揮を責めんとするような論調。つまり「弱い立場」に立っているものは責める。記者会見では権力者の怒るにふれることでためらい、後で紙面で攻撃をして、メンツを保とうとする。それと相通じる“卑怯”な論理構成。

たまたま「毎日新聞」を素材にして言ってみた。明日のTBSのサンデーモーニング、このことがテーマにされるかどうかは分からないが、もしテーマになったら旧知の岸井くんがなんというのか見守りたい。

そして、敢えてマスコミ人に言う。今度のことで匿名を云々言うのなら、匿名に隠れて、ありもしない事を毎日のように吐き出しているツイッター族を攻撃してみたらどうなんだい。

ネットの「匿名性」、それが、社会に対して害悪の一因となっていることを、少なくとも3・11以降、福島に対して寄せられているいわれなき誹謗中傷、デマを惹起していることの温床であることくらい分かって欲しいのだが。

重大な犯罪を犯した者が未成年であるがゆえに「少年A」であることは「人権」として認めるべきということか。
実名報道とやらの投げかけ、それはまず紙面にすることでは無く、社内で論議を尽くすことだろうに。

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