2013年1月17日木曜日

”記憶”の18年前、”未知”の18年後

18年前、1995年の1月17日の朝はこうやって始まった。
枕元の電話が鳴る。受話器をとると会社のマスタールームに泊まり込んでいる奴からの声。「神戸の方で大きな地震が。ニュース速報出しますか?」。「いいから出せ」。そして飛び起きてテレビをつける・・・。

その頃、ニュース速報を出すか出さないかは“責任者”の判断とされていた。
テレビが伝えるニュース。どうやら大きそうだ。とりあえず会社に向かう。
会社に着いて、やがて空撮が伝えてくる映像。その頃には、たしか「マスターカット」という番組をすべて止めて、地震速報に切り替わっていたような。

郡山の地にあっても、数日泊まり込みのような日々が始まった。取材応援の手配をしたり、その他もろもろ。「仕事」として見ていたような阪神淡路大震災。

昭和39年、1964年6月16日。会社の泊り明けで昼飯のあと、近くの喫茶店でコーヒーを飲んでいた。眠い目をこすりながら。突然、その店を襲った大きな揺れ。東京六本木。旧地名材木町。

会社に駆け戻る。新潟地震の発生。とにかく行け“の怒号。前夜一睡もしていないのは関係なし。クルーを組んで会社のジープで新潟へ。その頃はもちろん新潟には系列局などなかった。新潟映画社というところと映像の提供契約を結んでいるだけ。
三国峠を越えて、やがて見えて来た炎。昭和石油のタンク火災。その火を目当てに・・・。

1週間以上の新潟生活の始まりだった。新潟映画社にたどり着き、フィルムをわけてもらい、それをどうやって東京に送るか。とりあえずジープにフィルムを託して戻ってもらった。そのあとはただカメラマンと市内を歩き回るだけの日々。「仕事」として体験した新潟地震。壊れた万代橋、大きく傾いた鉄筋5階建ての団地の建物。

阪神淡路大震災の発生は未明、午前5時46分。今朝も郡山では、毎年行われている被災者への追悼の集まりが行われていた。雪の上にキャンドルをともして、その時間に黙とうする・・・。
阪神淡路大震災を語り継がねばならない。風化させてはならない。後世に伝えていかなければならない。そうあるべきだし、そうされてきた。濃淡はあっても。しかし、問題はその教訓を生かさなければならないということ。生かすことしか死者の魂に応える捧げ物は無いということ。応えるすべはないということ。

18年―。長いのか短いのか。

そして2011年3月11日午後2時46分。東日本大震災。被災地には多くのボランティアが駆け付けた。その中には阪神淡路大震災の経験者もいた。
経験者の言葉は、東北の多くの被災者の励ましになったはず。辛い思いが同化できるからか。

まもなく東日本大震災から2年、16年後、それはどういう形で語り継がれ、被災地はどうなっているのだろうか。

神戸の町並みは「復興」したように見える。その形としての“記憶”はモニュメントのようなものになってその地に立っている。

あの年の夏、やっと神戸を訪れることが出来た。長田のマーケットが賑わっていた。しかし、そこには戦後の光景が重なって見えていた。半年後でも、あの大都会でも復旧はその程度だったような。

16年後の東北の被災地。まったく未知の領域である。想像すらつかない。まして「原発被災」の福島の立ち入り禁止、帰還困難区域の姿など。

このところまた自身が頻発しているようだ。新潟では、2004年にも大きな地震があった。ブロック塀が被害を大きくした昭和53年の宮城県沖地震もあった。

やはり日本は地震大国だということ。風化させないということは、単に語り継ぐことだけではなく、教訓として生かすということ。

阪神淡路も46分、東日本大震災も46分。偶然だがこの“数字”が嫌だ。
家屋の倒壊や火災による死者、津波による死者。“原因”は違っても、死者を出したということでは一緒。

「課題です」「課題だ」と問題を投げだすだけでは何も生かされない教訓。

考えること、学ぶこと。それを覚醒させるのが「1・17」であり、「3・11」なのだと。

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