自殺者が去年、15年ぶりに3万人を下回った。そんな報道がされていた。その中に、いわゆる“被災地”の人が、仮設で暮らす人が何人含まれているのだろうか。
自殺、いや、自死。それは「3・11」前からの東京を筆頭にした、この国の社会システムの中で、大きな社会問題の一つだった。
東北のイメージ、塾でも問うたことだが。明確なイメージはないが、東京の人はしばしば漠然としてこう思っているようだ。亭主の過去も含めて。
「素朴で、やや貧しく、しばしば黙っていて・・・」。そう、あの「おしん」の世界を当てはめているかのような。
それは的確な指摘かもしれないし、そうでないかもしれない。しかし、強い意志を持っていると思う。
昨日は金曜日。官邸前や議事堂前、自民党本部前で、そのたの地でも、郡山駅前でも、小規模ながら反原発集会が行われていた。厳寒の中、思想信条に基づいたその行動にあからさまに異を唱えるものではない。在って然るべきものだとも思う。しかし、官邸前でそれが始まった当初に抱いた“違和感”。いまだそれをぬぐいきれない。
「なんでマスコミは取材にこないのだ」。「なんで福島県民はもっと声をあげないのか」。
ネットに拡散されてその「声」に押されたのか。テレビが行くと、ヘリが飛ぶと、中継がされると、ネットに上がる声は、まさに欣喜雀躍の様相を呈していた。
そこに「福島県民」も確かにいた。そこで声をあげてはいたが。
しかし、あえて言う。「そこは安全地帯なのだ」と。
「しばしば黙っていて・・・」。今でも、多くの人が、なんでもっと大きい声を挙げないのか、なんでもっと怒らないのかという。怒らないように見える福島県民を非難するようにも言う。
覚えていてくれるだろうか。
一昨年、2011年3月24日、“汚染”のよる出荷停止措置で、須賀川のキャベツ農家の人が自死したことを。彼はこよなく農業を愛し、一早く有機栽培を取り入れ、高品質のキャベツを作っていた。彼が最後に残した言葉は「もうダメだ」といううめきだったという。
その死をメディアは「絶望の上の死」と扱う。その時だけは。彼が死を選んだ事に対しての「検証報道」は見たことはないし、それが投げかけた問題を解き明かすことはしていない。不遇の死を深追いすることが、死者を冒涜するかのように勘違いして。
おととしの、2011年6月14日、相馬市の酪農家が牛舎の中で自死した。その壁には「原発さえなければ」と大きく書かれていた。そしてもう一つ残された言葉。「原発に手足ちぎられ酪農家」という“遺書”。
原発に対する、激しい抗議と受け止める。原発さえなければ。原発に“殺された”人達。死をもっての抗議。それを「しばしば黙っていて」というイメージで括れるのだろうか。
その死は沈黙ではないはず。雄弁に語っているはずなにの、それを語る術と持っている者が語ろうとも語らせようともしない。
福島県民は、農家は、「死」という何物にも代えがたい大きな声を挙げたのだ。
それを、そういう風には受けめなかった人たちが99,99%だったということ。
彼らはもちろん知人では無い。しかし、僕の心の中では、気持ちの中では、「Not as a Stranger」、見知らぬ人で無くーなのだ。
いわゆる災害関連死は相次いでいる。特に高齢者。中には自死もあるはず。
そして、これらの「死」は、まるで無かったことのように、その人生が、家族や知人だけで語られるだけで、消されていく、消し去られていくような月日の流れとその変わりようの速さ。
アルジェリアのその後の様子が知りたくてNHKのニュースを見る。全国ニュースに続いてローカルニュース。それが終わると関西系の番組。派手な着物をまとって厚化粧というよりも、どう見ても醜悪にしか見えない白塗りの化粧をした芸人二人が、鳴り物をならして、なにかわめいている。笑いの番組だろう。その笑いが被災地のいくばくかの“癒し”になるのか。ならない。
テレビという文明を間に挟んだ、あっちとこっちには、おおよそ、悲しみや苦しみを“共有”するという行為や意識は、もう無くなっているような土曜日の昼下がり。