きょうもNHKの東北ローカル、「被災地から声」を見た。きょうは相馬。
津田キャスターは言っていた。もう二年、既成の法律で対処するのはおかしいと。そして仮設に暮らす年配の女性。何年ぶりかの大雪。その「雪かたし」をしながら。「下着4枚も着てるんだよ。ブクブクだ。どうせ来るなら暖かい時に来てよ」。
重ねて言う。なんでこの番組が全国ネットにされないのだと。被災地で「キズ」を舐め合っていてもダメなんだ。やはりNHKの限界なのだなと。NHKの全国ニュースを見ているとつくづく思う。この番組は支持する、NHK全体は支持できないものが多い。もちろん時々は「良質」な番組をやっているけれど。それは認めるけれど。
昨夜の報道ステーション。古館の言い草。日揮の事件のこと。
「ご遺族は実名を伏せての報道を希望しましたが、私どもは事件の重大さ、また、亡くなった方の名誉のために実名で報道させていただきます」。
名誉とは何なのだろう。そして、この私どもって誰なのだ。古館個人か、制作会社の古館プロジェクトか、報道ステーションのプロデューサー含めたスタッフか、テレビ朝日という会社の見解か。
3・11以降、「振りをする」古館に嫌気がさしていた。安倍の単独出演。ただひたすら「ご意見拝聴」の体だった。
日揮事件の名前を報道するかどうかについて、意見、見解が割れている。マスコミに所属する人は、大方クレジットを付けてネットで言う。「個人的見解ですが」って。いわば「逃げ」を打っている。政治家にしても然り。「個人的」をよく使う。
人の意見や見解に二通りがあるのか。個人的とそうでないものと。おかしい。ところ変わればなんとやらってことか。「野党の時代はそう言いましたが、今は内閣総理大臣です。そのことについては・・・」。それを二枚舌という。
マスコミは、肩書で勝負している。肩書を持っている以上、組織に属している以上、二枚舌は許されない。政治家とて同じ。
二枚舌が許されている以上、どこにも本音が無い、本音がわからない以上、その言辞の中で翻弄される民草はいかにすべきなのか。
朝日新聞の「約束やぶり」に象徴されるように、朝日に抗議の申し入れ書を出した人が、本当に被害者の家族なら、朝日はそれに応える義務がある。
それすらしないで、また、「名誉」なんて言葉を大上段に掲げて物を言う輩に、「語って」欲しくない。
社内に番組審議会と言うのがある。そこで「有識者」と言われる人達はこのことについて論議すべきだ。
新聞・テレビ・ラジオが加盟している「マスコミ論理懇談会」と言うのがある。このことについて真摯に、真剣に論議すべきだと思う。出された結論が市民感情と乖離していたら、それはそれ。
「知る権利」という主張はさすが言いだしてはいないようだが、「知る」ということがはたして権利なんだろうか。それは国家権力が「隠し事」をしている時のためにある言葉だと思うのだが。
双葉町の井戸川町長が辞任した。きょうは町議選が告示された。たぶん無投票、現職再選。
井戸川町長の不信任の理由にこうあった。「独断専行」と。へ理屈のようだが、独断専行ということは「二枚舌を使っていなかった」ということにもなる。
少なくとも彼は東電や政府に対して、双葉郡のどこの首長よりも抵抗していた。
双葉郡は政府の「二枚舌」に翻弄されてきた。双葉町はそのリーダーとしてどんな人を選ぼうとするのか。
双葉町民も福島県民である。その町で起きていることに対して知事の反応は余りにも“他人事”のように聞こえる。
県紙2紙。双葉町のことについてもっと迫るべきかと。そして、町民は、こういう時だからこそ「実名」で語るべきかと。もうここまで来てしまっているんだ。恐れるもなは何もないと開き直って。
もう「内輪の本音」と「外向けの建前」の二枚舌はいらない。
とにかく、遺族の感情とは別に亡くなった人の名前は、すでにして、全部明らかにされてしまったということ。それによる、想像される「報道被害」の責任は誰がとるのかと言うこと。書き放なし、送り放なしで、多分、「そういえばこういうこともありましたね」で終わりにされるのだろうな。原発事故にしても、やがて・・・。