来年度から使われる中学校の教科書の検定結果が出た。
去年の“教育改革”方針決定で、その方向性は予想されていたこととはいえ、やはり驚いた。
「安倍よ、そこまでやるのかよ」。
教科書とは学校教育の中のいわば「基本」だ。合わせて出される学習指導要領が、いってみれば先生の参考書がどうなるのかはわからないが、きっと検定の延長線上にあるのだろう。
慰安婦問題、東京裁判、そして尖閣、竹島の領土問題。政府見解をそのまま記述することが求められその通りになった。
教科書出版社はたくさんある。採択されなければ”経営“はなりたたない。そんな事情もあるだろうが。
我が意を得たりとばかりの「目玉のマーク」の会社の関連出版社の教科書は売れにうれるのかもしれない。
教科書が政府の広報誌となったということだ。
明治政府は、教育に意を用いた。明治政府のやり方はこうだった。
まず師範学校を全国に作る。国の意向に沿った先生を作る。
制服を採用する。同じ服装をさせる。
教科書は国定教科書にする。文部省が決めた教科書だけを使わせる。
全国共通語というのを浸透させようとはかる。方言を“駆逐”しようとした。
その共通語なるもののいわれははっきりしていないが。
だけど「方言」は死ななかった。
来年度からの教科書を与えられて、教師はどういう教育をしていくのだろうか。
ただ、それを教える、覚えさせるということに腐心するのだろうか。
教育とは、単に「知識」を与える場では決してない。考える力を養う場だ。
少なくとも前記した事柄に対して、多様な見方があることを紹介し、どう考えるかを問う、考えさせる。それが教育だ。
単一的な、しかも政府見解の押し付けで、考える子供は育つのだろうか。
育てる必要は無いと思っているのだろう。安倍と同じ価値観を持った子供にすればいいのだろう。何も考えずに政府の言い分だけを信じ込む子供を作っていけばいいのだろう。
個性の無い、統一化された子供たちを作っていけばいいのだろう。
安倍流の教育論としては。
安倍の「コピー」を作ろうということかい。安倍“リトルピープル”を作ろうということか。まさに今は「2Q15」なんだ・・・。
中国、韓国の反日教育へ徹底していた。多くの若者がその中で育った。
安倍はそれを憎しとした。
しかし、安倍のやっていることはそれらの国の“物真似”だ。それらの国と同じようなことをしている。
昨日、テレビではまさに領土や慰安婦の記述について盛んに報道していた。
NHKの夜9時の男キャスターは全く能面のような顔をして無表情にそのことだけを読み上げていた。
2020年の東京オリンピックも教科書に大々的に書かれていると言う。
来年度からの教科書に原発問題、東日本大震災のことはどう記述されているのか。テレビはどの局も伝えなかった。
今朝、新聞を繰りに繰った。扱いは小さい。記事を読む限り、何が書いてあるのかも判然としない。
何故原発が誘致されたのか、それが何をもたらしたのか、そして安全神話が崩壊し、大事故を起こし、多くの人が苦しみを負っている。
そんな記述はあるのだろうか。再稼働反対、賛成の動きがあるとは書かれているようだが。
まさか「アンダーコントロールされている」と書かれてはいないだろうな。
被ばくの健康への影響についても、どれだけの記述がされているのだろうか。
中学生は影響を受けやすい年頃なのだ。
安全基準が文部科学省の言うがままの「数値」にされているのかどうか。
物を考えない大人が増えた。さらに物を考えない子どもも増やそうということか。それは本来的な意味での「教育」に反する。
教育が教育で無くなる日。現場の教師がどう考えているのかを知りたい気もする。教師の“苦悩”が始まる日なのかもしれない。
2015年4月7日火曜日
2015年4月6日月曜日
「基地」と「原発」、その類似性
代替案を持ってこい、日本の安全保障をどう考えているのか、こういった話がされること自体が日本の政治の堕落だ。
翁長知事はそう官房長官に言ったという。
日本にある米軍基地や施設の74%は沖縄にある。
日米安保条約の基づく、それに“依存”しきっていた日本。
「日米安保があるからアメリカは日本を守ってくれる」。戦後、“信じられていた神話”の一つだ。
米軍がいるから日本は防衛費を縮小出来、その分、経済成長に予算を振り向けられた。
朝鮮戦争の特需やベトナム戦争の特需もあっただろう。米軍基地が日本にあることによって、沖縄沖縄が自ら基地を提供したことはない。すべて強制接収された。
にその多くがあることによって、この国は成長することが出来た。
沖縄の“犠牲”によってこの国の経済は成り立っていたと言ってもいいのだろう。
しかし、多くの日本人は、沖縄に対して謝意を持つことが無かった。
原発事故後、福島県の人は6百人ほどが沖縄に避難した。福島からだけではない、東京やその近郊からもだ。
その人たちの中には「被害者」としての”甘え“があった。ある程度までは沖縄はその要求や振る舞いに手を差し伸べていた。
その辺の事情を、沖縄にいる郡山出身の仲村ヨネさんから災後聞かされていた。
沖縄に避難した人は、それくらい「沖縄を見たか」ということだ。「沖縄を知ったか」ということだ。
避難者として環境も含め、辛い思いをした人もいよう。
沖縄に暮らしていて、故郷の様子を知るにつけ、基地を押し付けられた沖縄と、原発を押し付けられた福島とをどう位置付けていたのだろうか。
福島に原発が出来、それが全国にも広がり、一時は電力の30%が原発で賄われていた。
原発が作り出すエネルギーとしての電力は、日本の経済成長を大きく支えた。
そして結果は・・・。
堕落した政治の故にか、福島にも沖縄にも“不幸”がある。不公平がある。
沖縄の基地に、いつしか多くの人が関心を持たなくなったように、福島の事故に対しても多くの人が関心を持たなくなった。
基地も原発事故も「それがあった」という事実は知っていたものの、それをめぐる様々な事象には、どこか「他人事」として眺めるようになった。
翁長も安保そのものについてははっきり言及していない。要は「押し付け」られた基地への反発なのだ。
いまさらそれを持ち出すつもりはないが、福島原発の電気は、長い送電線を、田園風景とはおよそ不似合いな日本の原風景を下に見下ろしながら、首都圏に送られていたということ。
それを誰しもが、多くの人が知らなかったということ。
そして事故を起こして、多くの放射性物質が飛び散り、大地が汚染され、その尻拭いもまた福島に封じ込まれるという事。
最終処分場の“期限”は30年後。沖縄の基地の30年後は・・・。
政治の堕落。それを象徴するのが政治家の言語だ。
菅官房長官は、「粛々と」と言っていたのを、翁長に“上から目線だ”と抗議されると、きょうは、もうその言葉を使わないと言った。
我が軍といった総理大臣も、その言葉は使わないと言った。それは「過ち」を認めたということでは全く無く、その場しのぎだということ。
政権だけではない。政治の場では、いまや、あまりにも日本語が軽い。日本語を愚弄してさえいる。発した言葉は元には戻せないのだ。
それを「綸言汗の如し」という。
今の政治家には、論語の素養とてないのだろう。政治家としてあるべき姿、人間としてあるべき姿を、彼らに教える人も機関もない。
諫言する人を傍には重用しない。
政治家の素行含めて、「政治の堕落」という言葉にはもろもろ頷けるものありと。
翁長知事はそう官房長官に言ったという。
日本にある米軍基地や施設の74%は沖縄にある。
日米安保条約の基づく、それに“依存”しきっていた日本。
「日米安保があるからアメリカは日本を守ってくれる」。戦後、“信じられていた神話”の一つだ。
米軍がいるから日本は防衛費を縮小出来、その分、経済成長に予算を振り向けられた。
朝鮮戦争の特需やベトナム戦争の特需もあっただろう。米軍基地が日本にあることによって、沖縄沖縄が自ら基地を提供したことはない。すべて強制接収された。
にその多くがあることによって、この国は成長することが出来た。
沖縄の“犠牲”によってこの国の経済は成り立っていたと言ってもいいのだろう。
しかし、多くの日本人は、沖縄に対して謝意を持つことが無かった。
原発事故後、福島県の人は6百人ほどが沖縄に避難した。福島からだけではない、東京やその近郊からもだ。
その人たちの中には「被害者」としての”甘え“があった。ある程度までは沖縄はその要求や振る舞いに手を差し伸べていた。
その辺の事情を、沖縄にいる郡山出身の仲村ヨネさんから災後聞かされていた。
沖縄に避難した人は、それくらい「沖縄を見たか」ということだ。「沖縄を知ったか」ということだ。
避難者として環境も含め、辛い思いをした人もいよう。
沖縄に暮らしていて、故郷の様子を知るにつけ、基地を押し付けられた沖縄と、原発を押し付けられた福島とをどう位置付けていたのだろうか。
福島に原発が出来、それが全国にも広がり、一時は電力の30%が原発で賄われていた。
原発が作り出すエネルギーとしての電力は、日本の経済成長を大きく支えた。
そして結果は・・・。
堕落した政治の故にか、福島にも沖縄にも“不幸”がある。不公平がある。
沖縄の基地に、いつしか多くの人が関心を持たなくなったように、福島の事故に対しても多くの人が関心を持たなくなった。
基地も原発事故も「それがあった」という事実は知っていたものの、それをめぐる様々な事象には、どこか「他人事」として眺めるようになった。
翁長も安保そのものについてははっきり言及していない。要は「押し付け」られた基地への反発なのだ。
いまさらそれを持ち出すつもりはないが、福島原発の電気は、長い送電線を、田園風景とはおよそ不似合いな日本の原風景を下に見下ろしながら、首都圏に送られていたということ。
それを誰しもが、多くの人が知らなかったということ。
そして事故を起こして、多くの放射性物質が飛び散り、大地が汚染され、その尻拭いもまた福島に封じ込まれるという事。
最終処分場の“期限”は30年後。沖縄の基地の30年後は・・・。
政治の堕落。それを象徴するのが政治家の言語だ。
菅官房長官は、「粛々と」と言っていたのを、翁長に“上から目線だ”と抗議されると、きょうは、もうその言葉を使わないと言った。
我が軍といった総理大臣も、その言葉は使わないと言った。それは「過ち」を認めたということでは全く無く、その場しのぎだということ。
政権だけではない。政治の場では、いまや、あまりにも日本語が軽い。日本語を愚弄してさえいる。発した言葉は元には戻せないのだ。
それを「綸言汗の如し」という。
今の政治家には、論語の素養とてないのだろう。政治家としてあるべき姿、人間としてあるべき姿を、彼らに教える人も機関もない。
諫言する人を傍には重用しない。
政治家の素行含めて、「政治の堕落」という言葉にはもろもろ頷けるものありと。
2015年4月5日日曜日
「全てのことに時がある」
きょうはキリスト教の復活祭だ。キリストの復活を祝う日だ。
聖書の中にこんな言葉がる。
<コヘルトの言葉>
何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
生まれる時、死ぬ時
植える時、植えたものを抜く時
殺す時、癒す時
破壊する時、建てる時
泣く時、笑う時
嘆く時、踊る時
石を放つ時、石を集める時
抱擁の時、抱擁を遠ざける時
求める時、失う時
保つ時、放つ時
裂く時、縫う時
黙する時、語る時
愛する時、憎む時
戦いの時、平和の時。
聖書から離れても「時」というのは、さまざまなことで重要視されるはず。
さまざまな事に応用されるはず。
「時を失した」という言葉もある。つまり、タイミングがずれたらまとまることもまとまらんくなるということか。
沖縄、辺野古をめぐる沖縄県知事と官房長官との会談。まさに「時を失した会談、遅すぎた会談ということにならないだろうか。
会談は結果「平行線」のまま。辺野古に基地を作る。作らせないの応酬。
これまで、時日をかけてやってきた辺野古をめぐる動きは、まったくの振り出しに戻ってしまっている。
翁長が知事に当選した時、国の方から、積極的に好意的に、その選挙結果を尊重してのアプローチをしておけば、もしかしたら局面は変わっていたかもしれない。
会談を国が申し出るどころか「粛々と工事を進める」などと強圧的な言辞を言い、振興費を減らしての脅し。会談しないとも言明していた。
これでは沖縄側だって「売られた喧嘩は買うだけ」ということにもなる。喩えの言葉としては適当ではないかもしれないが。
何をもって菅を会談の方向に変えさせたのか。その要因、遠因があるはずだ。
その中には安倍の訪米がからんでいるのだろう。
対米戦略があるのだろうとも思える。
沖縄の基地、辺野古をめぐっての動き、それにアメリカ側は“神経をとがらせている”という動きがあるからだ。
訪米を成功させるための遅すぎた会談だった。そんなことを思う。
たぶん、近々、安倍も会うことになるのだろう。会って“解決”が出来るのか。
もう時期を失したということではないのか。
翁長が“かたくな”になる以前に、思慮をめぐらしている時にあっていれば展開が変わっていたのかもしれないのに。
“怒り”に燃える沖縄県民のこころを静めるのは至難の業にもなったような。
芽生え、根付いた「不信」を除去するには、何十倍もの努力を必要とする。
そんな“単純”なことすらわからないはずはないのだが。
福島も全くのように同じ構図の中にある。全ての福島県民とは言わないが、沖縄県民とて同様だが、東電や国のやり方はすべてに時を失してきた。
“怒り”を増幅させてしまったのだ。
だから被災者を中心にした、そこに在ることは常に揉めるに揉める。3年前の今頃から、国や東電が真摯な姿勢を貫き、「共有する問題」として対処していれば、おしなべての事にある「不信」は生まれなかったし、もろもろの事がもっとスムースに進行していたはず。
沖縄も福島も同じだ。国は「見くびっていた、甘く見ていたのだ」。
苦渋は「他人事だったのだ」。
コヘルトの言葉にはさらにこうある。
わたしは知った
人間にとって最も幸福なのは 喜び楽しんで一生を送ることだ、と
人だれもが飲み食いし
その労苦によって満足するのは 神の賜物だ、と。
そして最後はこうある。
“すべての出来事、すべての行為には、定められた時がある”。
そうなんだよな。終戦の時も”時”を間違えたのだなと。
終戦の詔書、「時運の赴くところ」と、そこにも時期を失しているにも関わらず“時”という字を使った。
やはり「義命の存するところ」ではなかったのだろうか。あの表現は。とも振り返る。
聖書の中にこんな言葉がる。
<コヘルトの言葉>
何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
生まれる時、死ぬ時
植える時、植えたものを抜く時
殺す時、癒す時
破壊する時、建てる時
泣く時、笑う時
嘆く時、踊る時
石を放つ時、石を集める時
抱擁の時、抱擁を遠ざける時
求める時、失う時
保つ時、放つ時
裂く時、縫う時
黙する時、語る時
愛する時、憎む時
戦いの時、平和の時。
聖書から離れても「時」というのは、さまざまなことで重要視されるはず。
さまざまな事に応用されるはず。
「時を失した」という言葉もある。つまり、タイミングがずれたらまとまることもまとまらんくなるということか。
沖縄、辺野古をめぐる沖縄県知事と官房長官との会談。まさに「時を失した会談、遅すぎた会談ということにならないだろうか。
会談は結果「平行線」のまま。辺野古に基地を作る。作らせないの応酬。
これまで、時日をかけてやってきた辺野古をめぐる動きは、まったくの振り出しに戻ってしまっている。
翁長が知事に当選した時、国の方から、積極的に好意的に、その選挙結果を尊重してのアプローチをしておけば、もしかしたら局面は変わっていたかもしれない。
会談を国が申し出るどころか「粛々と工事を進める」などと強圧的な言辞を言い、振興費を減らしての脅し。会談しないとも言明していた。
これでは沖縄側だって「売られた喧嘩は買うだけ」ということにもなる。喩えの言葉としては適当ではないかもしれないが。
何をもって菅を会談の方向に変えさせたのか。その要因、遠因があるはずだ。
その中には安倍の訪米がからんでいるのだろう。
対米戦略があるのだろうとも思える。
沖縄の基地、辺野古をめぐっての動き、それにアメリカ側は“神経をとがらせている”という動きがあるからだ。
訪米を成功させるための遅すぎた会談だった。そんなことを思う。
たぶん、近々、安倍も会うことになるのだろう。会って“解決”が出来るのか。
もう時期を失したということではないのか。
翁長が“かたくな”になる以前に、思慮をめぐらしている時にあっていれば展開が変わっていたのかもしれないのに。
“怒り”に燃える沖縄県民のこころを静めるのは至難の業にもなったような。
芽生え、根付いた「不信」を除去するには、何十倍もの努力を必要とする。
そんな“単純”なことすらわからないはずはないのだが。
福島も全くのように同じ構図の中にある。全ての福島県民とは言わないが、沖縄県民とて同様だが、東電や国のやり方はすべてに時を失してきた。
“怒り”を増幅させてしまったのだ。
だから被災者を中心にした、そこに在ることは常に揉めるに揉める。3年前の今頃から、国や東電が真摯な姿勢を貫き、「共有する問題」として対処していれば、おしなべての事にある「不信」は生まれなかったし、もろもろの事がもっとスムースに進行していたはず。
沖縄も福島も同じだ。国は「見くびっていた、甘く見ていたのだ」。
苦渋は「他人事だったのだ」。
コヘルトの言葉にはさらにこうある。
わたしは知った
人間にとって最も幸福なのは 喜び楽しんで一生を送ることだ、と
人だれもが飲み食いし
その労苦によって満足するのは 神の賜物だ、と。
そして最後はこうある。
“すべての出来事、すべての行為には、定められた時がある”。
そうなんだよな。終戦の時も”時”を間違えたのだなと。
終戦の詔書、「時運の赴くところ」と、そこにも時期を失しているにも関わらず“時”という字を使った。
やはり「義命の存するところ」ではなかったのだろうか。あの表現は。とも振り返る。
2015年4月4日土曜日
緑が減って行く
家の近所を久しぶりに歩いた。そして驚いた。
田んぼが減っている・・・。
二か所の田んぼが宅地になった。早や家が建設中だ。大手のハウスメーカーの看板や覆い。足場が組まれ、農道にはトラックが。
我が家は、正確な地名では郡山市字賀庄という。
30年近く前は、一帯が田んぼであり、郊外の田園風景だった。
その狭い地域には家が3軒しかない。そう聞かされていた。
「私の家は賀庄ってところなんだけど、家が3軒、そ一つが我が家」。昔いた会社の子が言っていた。
そんな名残か。賀庄町内会というのは無い。近隣の町内会に賀庄の住む人たちは分散して所属している。
そして、その地は、だんだんと宅地化していった。我が家も農地だったところに建てられた建売住宅。
でも、まだ、幸いというか、家の脇や道路の向こうは田んぼだった。
その家に住むことを決めたのは、ちょうど見に行った時に、水が張られた田んぼからカエルの鳴き声がしていたからだ。
田んぼをわたる風が街中では感じられない心地よさを与えてくれたからだった。
住宅需要は高いという。特に「3・11」後、それは顕著になったようだ。
一方、農家の方はコメの価格の値下がりが激しいと聞く。
田んぼの一つは、3・11後“耕作放棄地”となっている。そこには常態のように、道路を通る車から、コンビニ袋が投げ捨てられている。
弁当のカラ、缶コーヒーの空き缶。
まだ作付をしている田んぼの4面は、すでに田植えの準備が始まった。田起こしの作業が行われている。細々と。
家が建つのは結構だ。きっと瀟洒な家が出来るのかもしれない。たとえ小さな家であっても。
でも、そこにあった緑の光景は無くなる。
変貌する地方都市。そう言ってしまえばそれまでだが・・・。
少なくとも犬のマーキングの場所も無くなる。今、宅地化されている場所。そこは犬のマーキングポイントだった。もちろん田んぼの中ではなく、その周りの雑草部分だったけど。
この人口30万人余りの地方都市。そこが「過疎」にあたるのか、「密集地」が広がるということか。その区分けはわからない。
「地方消滅」という言葉が実感できない。
でも、街中に行くと、事務所のある旧市街に行くと、やたら空き家が目立つ。
取り壊されて駐車場になっているところも目に付く。
農地を売る、農地を転用する農家にもそれぞれの事情があるのだろう。
米を作っていりだけでは生計は維持できないのだろう。
水利権料を払い、種苗を買い、トラクターなど農機具の借り賃・・・。
なにとり“後継者”がいないのかもしれない。
農地と言う緑が確実に消えて行っているということ。
航空写真で、数年前と今とを比較してみたら、そこに色を付けてみたら、その変容ぶりは如実にわかるはずだとも。
土が無くなると、どうしても地温は上がるのだろう。風も感じが違ってくるのだろう。
良いとか悪いとかのことでは無い。
この国の中の一つの時代の移り変わりの小さな「点」としての光景だ。
蛙の居場所はだんだん無くなっていくのだろうな・・・。あの季節を告げる鳴き声に癒されていたいと思うのも、ある意味、身勝手な贅沢かもしれないが・・・。
何よりも「除染」ということで、小さな公園や家々の緑も大方無くなったし。それとても、そこに住んでいられるということだけで”贅沢”なのかもしれないが。
田んぼが減っている・・・。
二か所の田んぼが宅地になった。早や家が建設中だ。大手のハウスメーカーの看板や覆い。足場が組まれ、農道にはトラックが。
我が家は、正確な地名では郡山市字賀庄という。
30年近く前は、一帯が田んぼであり、郊外の田園風景だった。
その狭い地域には家が3軒しかない。そう聞かされていた。
「私の家は賀庄ってところなんだけど、家が3軒、そ一つが我が家」。昔いた会社の子が言っていた。
そんな名残か。賀庄町内会というのは無い。近隣の町内会に賀庄の住む人たちは分散して所属している。
そして、その地は、だんだんと宅地化していった。我が家も農地だったところに建てられた建売住宅。
でも、まだ、幸いというか、家の脇や道路の向こうは田んぼだった。
その家に住むことを決めたのは、ちょうど見に行った時に、水が張られた田んぼからカエルの鳴き声がしていたからだ。
田んぼをわたる風が街中では感じられない心地よさを与えてくれたからだった。
住宅需要は高いという。特に「3・11」後、それは顕著になったようだ。
一方、農家の方はコメの価格の値下がりが激しいと聞く。
田んぼの一つは、3・11後“耕作放棄地”となっている。そこには常態のように、道路を通る車から、コンビニ袋が投げ捨てられている。
弁当のカラ、缶コーヒーの空き缶。
まだ作付をしている田んぼの4面は、すでに田植えの準備が始まった。田起こしの作業が行われている。細々と。
家が建つのは結構だ。きっと瀟洒な家が出来るのかもしれない。たとえ小さな家であっても。
でも、そこにあった緑の光景は無くなる。
変貌する地方都市。そう言ってしまえばそれまでだが・・・。
少なくとも犬のマーキングの場所も無くなる。今、宅地化されている場所。そこは犬のマーキングポイントだった。もちろん田んぼの中ではなく、その周りの雑草部分だったけど。
この人口30万人余りの地方都市。そこが「過疎」にあたるのか、「密集地」が広がるということか。その区分けはわからない。
「地方消滅」という言葉が実感できない。
でも、街中に行くと、事務所のある旧市街に行くと、やたら空き家が目立つ。
取り壊されて駐車場になっているところも目に付く。
農地を売る、農地を転用する農家にもそれぞれの事情があるのだろう。
米を作っていりだけでは生計は維持できないのだろう。
水利権料を払い、種苗を買い、トラクターなど農機具の借り賃・・・。
なにとり“後継者”がいないのかもしれない。
農地と言う緑が確実に消えて行っているということ。
航空写真で、数年前と今とを比較してみたら、そこに色を付けてみたら、その変容ぶりは如実にわかるはずだとも。
土が無くなると、どうしても地温は上がるのだろう。風も感じが違ってくるのだろう。
良いとか悪いとかのことでは無い。
この国の中の一つの時代の移り変わりの小さな「点」としての光景だ。
蛙の居場所はだんだん無くなっていくのだろうな・・・。あの季節を告げる鳴き声に癒されていたいと思うのも、ある意味、身勝手な贅沢かもしれないが・・・。
何よりも「除染」ということで、小さな公園や家々の緑も大方無くなったし。それとても、そこに住んでいられるということだけで”贅沢”なのかもしれないが。
2015年4月3日金曜日
春に背いて・・・
その人は突然歌いだした。4畳半の仮設の中で。
今日も暮れゆく異国の丘で、友よ寒かろ切なかろ
我慢だ待ってろ嵐が過ぎりゃ、
帰る日もくる、春が来る・・・。
歌い終わって一呼吸おいて、その人はこう言った。
「俺には春は来ねえな」と。
原発事故で避難した人たちの「帰還」への動きが散見される。
いち早く避難指示が解除され、全村帰村を打ち出した川内村も、帰村率は56%だという。その7割は65歳以上だと言う。
村の東部では12%だと言う。
楢葉では帰村に向けた準備宿泊なるものが来週から始まる。
3ヶ月の“長期宿泊”。
町民は言う。
「泊まろうにも帰る家がない」と。おおよそ千軒が地震で損壊したか、荒廃家屋だ。
南相馬の一部区域では「特定避難勧奨地点解除」の取り消しを求める訴訟も起きている。
帰村出来た都路村。いや、帰村させられたというべきか。帰村率は30%台だ。
「まだ原発が安定していない」「避難先に馴染んでしまった」「帰っても日常生活が、買い物ひとつとてもままならない」などの理由だという。
帰村した区長は言った。
「5年経った。帰ってこない人は、もう帰っては来ないだろう」と。
その都路村にある、国道288号沿いに置かれたフレコンバッグ。大熊、双葉に次いで、中間貯蔵施設に搬入されるという。
とにかく「搬入」が何事も無く進むことを祈るのみだ。
中間貯蔵施設。まだ未完だ。順次運び込むということだ。そこは、除染で出た汚染廃棄物の“墓場”だ。
運び込まれる土、運び込まれる草木。土は草木を育ててきた。草木は人間や動物たちの食物として、命の糧として、その地にあったものだ。
それらはすでにして黒い袋の中で息を止めていたものだろうが、廃棄物として、”墓場“に運び込まれる。
季節が巡っても「生まれ変わる」ことはない。
こっつん こっつん 打(ぶ)たれる土は
よい畠になって よい麦生むよ
朝から晩まで踏まれる土はよい路になって車を通すよ
打たれぬ土は 踏まれぬ土は 要らない土か
いえいえ それは名の無い草のお宿をするよ
金子みすゞの詩「土」。
2011年の桜の季節。映画「無人地帯」の監督とカメラマンが福島県を歩いていた。
飯舘村の桜は満開だった。まだ村が全村避難を決める前。長泥も比曾も桜が咲き誇っていた。墓にも寺にも神社にも。
彼らが撮った桜は一つのイメージカットだったのだろうか。随所に桜があった。
桜の枝越しに東電原子力発電所の煙突が垣間見えていた。
その後・・・。あの桜花はどうなったのだろう。やはり「汚染」ということで切り取られ、袋の中に入れられてしまったのだろうか。
その監督は、今、毎日のように東京の各所の桜をスチールカメラに収めている。
無人地帯の続編を彼は作ると言っていた。そのタイトルは確か仮題ではあろうが「次の春へ」だったように記憶している
今日も暮れゆく異国の丘で、友よ寒かろ切なかろ
我慢だ待ってろ嵐が過ぎりゃ、
帰る日もくる、春が来る・・・。
歌い終わって一呼吸おいて、その人はこう言った。
「俺には春は来ねえな」と。
原発事故で避難した人たちの「帰還」への動きが散見される。
いち早く避難指示が解除され、全村帰村を打ち出した川内村も、帰村率は56%だという。その7割は65歳以上だと言う。
村の東部では12%だと言う。
楢葉では帰村に向けた準備宿泊なるものが来週から始まる。
3ヶ月の“長期宿泊”。
町民は言う。
「泊まろうにも帰る家がない」と。おおよそ千軒が地震で損壊したか、荒廃家屋だ。
南相馬の一部区域では「特定避難勧奨地点解除」の取り消しを求める訴訟も起きている。
帰村出来た都路村。いや、帰村させられたというべきか。帰村率は30%台だ。
「まだ原発が安定していない」「避難先に馴染んでしまった」「帰っても日常生活が、買い物ひとつとてもままならない」などの理由だという。
帰村した区長は言った。
「5年経った。帰ってこない人は、もう帰っては来ないだろう」と。
その都路村にある、国道288号沿いに置かれたフレコンバッグ。大熊、双葉に次いで、中間貯蔵施設に搬入されるという。
とにかく「搬入」が何事も無く進むことを祈るのみだ。
中間貯蔵施設。まだ未完だ。順次運び込むということだ。そこは、除染で出た汚染廃棄物の“墓場”だ。
運び込まれる土、運び込まれる草木。土は草木を育ててきた。草木は人間や動物たちの食物として、命の糧として、その地にあったものだ。
それらはすでにして黒い袋の中で息を止めていたものだろうが、廃棄物として、”墓場“に運び込まれる。
季節が巡っても「生まれ変わる」ことはない。
こっつん こっつん 打(ぶ)たれる土は
よい畠になって よい麦生むよ
朝から晩まで踏まれる土はよい路になって車を通すよ
打たれぬ土は 踏まれぬ土は 要らない土か
いえいえ それは名の無い草のお宿をするよ
金子みすゞの詩「土」。
2011年の桜の季節。映画「無人地帯」の監督とカメラマンが福島県を歩いていた。
飯舘村の桜は満開だった。まだ村が全村避難を決める前。長泥も比曾も桜が咲き誇っていた。墓にも寺にも神社にも。
彼らが撮った桜は一つのイメージカットだったのだろうか。随所に桜があった。
桜の枝越しに東電原子力発電所の煙突が垣間見えていた。
その後・・・。あの桜花はどうなったのだろう。やはり「汚染」ということで切り取られ、袋の中に入れられてしまったのだろうか。
その監督は、今、毎日のように東京の各所の桜をスチールカメラに収めている。
無人地帯の続編を彼は作ると言っていた。そのタイトルは確か仮題ではあろうが「次の春へ」だったように記憶している
2015年4月2日木曜日
桜花の季節に・・・
まさに、今は桜の季節だ。郡山でも、いわきでも、福島でも桜の開花が伝えられる。
テレビはこのところ連日「桜報道」だ。とにもかくにも日本人は桜が好きであり、桜に想いを託し、桜の季節を謳歌し、桜にさまざまな事をなぞらえ、思う。
歌人は、桜の季節に多くの歌を詠んだ。桜花に人生を見るかのように。
“深草の野辺の桜し心あらば 今年ばかりは墨染めに咲け”
藤原基経が亡くなった悲しみを、上野岑雄と言う人が詠んだ歌である。古今和歌集にある一句だ。
2011年の春、桜の季節。この歌を思い浮かべ、その中に身も心も置いていた。
しかしあの年の桜も艶やかだった。桜に戸惑って記憶・・・。
夜ノ森公園の桜の写真を一枚持ってビッグパレットの座っていた御婦人。
富岡町役場がホームページに公開した、その夜ノ森の桜並木。見る人はだれもいないのに、いつもの年のように満開になっていた桜のトンネル。
夜ノ森公園には何回も行った。桜に会いに。2時間以上の時間をかけて。引き付ける物があったのだろうか。
夜桜、あのトンネルの中に身を置いていると、桜の妖気を感じたこともある。
恐ろしささえあった。
逃げるようにその場を去った時もある。漆黒の闇の中の国道288号。妖気に追いかけられているような気がして、懸命にアクセルを踏んでいた。
2012年。郡山のカトリック墓地から眼下を流れる逢瀬川の桜を見下ろしていた。墓地の桜は幾多の墓を守っているようにも見えた。
2013年。逢瀬川沿いを歩いた。川沿いの桜を見上げていた・・・。
2014年、近所の笹原川の桜に会いに行った。久しぶりの“再会”。
喜んで桜が迎えてくれていたようにも思えた。
そして荒池公園の桜にも会いにいった。
犬を連れて。
桜の傍らには除染で出た廃棄物がプレハブ仕立ての囲いで覆われていた。隠されていた・・・。
被災地では、桜の苗木を植える運動が行われているという。子どもたちによって。その子たちの成長と桜の成育がどう同調するのだろうか。
富岡の桜、夜ノ森の桜。一部の除染が終わったと聞いた。一時帰宅をした人達がそれを眺められるようにと昼間の立ち入りが認められるとも聞いた。
咲き誇る桜と、その脇にある朽ち果てそうな建物と。
そのコントラストは観る人にどう映るのだろうか。
今年もどこかで桜を見るつもりだ。
人為がいかにあろうとも、変わらずに咲く桜。季節になると必ず咲く桜。
ペリュリュー島だったか。戦中、玉砕する部隊が本土に打電した最後の言葉。
「サクラ・・・サクラ・・・」だったと言う。
海軍兵学校の学生たちは愛唱していたという。♪咲いた花なら散るのは覚悟、見事散りましょ国の為・・・♪。
ポーランドの詩人、ヴィスワヴァ・シンボルスカの「眺めとの別れ」。
//またやって来たからと言って春を恨んだりはしない
例年のように自分の義務を果たしているからと言って
春を責めたりはしない
わかっている、私がいくら悲しんでもそのせいで緑の萌えるのが
止まったりはしないと・・・//
3・11の後、桜はもっとも”難しい花”になったような気がして。
テレビはこのところ連日「桜報道」だ。とにもかくにも日本人は桜が好きであり、桜に想いを託し、桜の季節を謳歌し、桜にさまざまな事をなぞらえ、思う。
歌人は、桜の季節に多くの歌を詠んだ。桜花に人生を見るかのように。
“深草の野辺の桜し心あらば 今年ばかりは墨染めに咲け”
藤原基経が亡くなった悲しみを、上野岑雄と言う人が詠んだ歌である。古今和歌集にある一句だ。
2011年の春、桜の季節。この歌を思い浮かべ、その中に身も心も置いていた。
しかしあの年の桜も艶やかだった。桜に戸惑って記憶・・・。
夜ノ森公園の桜の写真を一枚持ってビッグパレットの座っていた御婦人。
富岡町役場がホームページに公開した、その夜ノ森の桜並木。見る人はだれもいないのに、いつもの年のように満開になっていた桜のトンネル。
夜ノ森公園には何回も行った。桜に会いに。2時間以上の時間をかけて。引き付ける物があったのだろうか。
夜桜、あのトンネルの中に身を置いていると、桜の妖気を感じたこともある。
恐ろしささえあった。
逃げるようにその場を去った時もある。漆黒の闇の中の国道288号。妖気に追いかけられているような気がして、懸命にアクセルを踏んでいた。
2012年。郡山のカトリック墓地から眼下を流れる逢瀬川の桜を見下ろしていた。墓地の桜は幾多の墓を守っているようにも見えた。
2013年。逢瀬川沿いを歩いた。川沿いの桜を見上げていた・・・。
2014年、近所の笹原川の桜に会いに行った。久しぶりの“再会”。
喜んで桜が迎えてくれていたようにも思えた。
そして荒池公園の桜にも会いにいった。
犬を連れて。
桜の傍らには除染で出た廃棄物がプレハブ仕立ての囲いで覆われていた。隠されていた・・・。
被災地では、桜の苗木を植える運動が行われているという。子どもたちによって。その子たちの成長と桜の成育がどう同調するのだろうか。
富岡の桜、夜ノ森の桜。一部の除染が終わったと聞いた。一時帰宅をした人達がそれを眺められるようにと昼間の立ち入りが認められるとも聞いた。
咲き誇る桜と、その脇にある朽ち果てそうな建物と。
そのコントラストは観る人にどう映るのだろうか。
今年もどこかで桜を見るつもりだ。
人為がいかにあろうとも、変わらずに咲く桜。季節になると必ず咲く桜。
ペリュリュー島だったか。戦中、玉砕する部隊が本土に打電した最後の言葉。
「サクラ・・・サクラ・・・」だったと言う。
海軍兵学校の学生たちは愛唱していたという。♪咲いた花なら散るのは覚悟、見事散りましょ国の為・・・♪。
ポーランドの詩人、ヴィスワヴァ・シンボルスカの「眺めとの別れ」。
//またやって来たからと言って春を恨んだりはしない
例年のように自分の義務を果たしているからと言って
春を責めたりはしない
わかっている、私がいくら悲しんでもそのせいで緑の萌えるのが
止まったりはしないと・・・//
3・11の後、桜はもっとも”難しい花”になったような気がして。
2015年4月1日水曜日
「メシを食う」ということ
2011年、あの大震災、原発事故後。この国の中枢、総理大臣官邸は大混乱の極致にあった。為す術もないと言った状況と見えた。組織としての意識の共有も、的確な判断も指示も無く、政治家・官僚・東電幹部・専門家が右往左往しているとも見えた。
窮余の一策。菅直人は自民党の谷垣総裁に「大連立」を持ちかけた。救国内閣で乗り切ろうとして。
谷垣は一蹴した。
「菅さんとは当選同期だ。顔は知っている。が、彼とは一回も酒を飲んだことも無いし、メシを食ったこともない。どういう人だかわからない。その人と連立を組むわけにはいかなかった」。
「歴史は夜つくられる」。そんな題名の映画が昔あった。
歴史は夜、大衆が寝静まったころ、つまり知らない間に、気づかない間に、作られていく。そういう意味だと解釈している。
2011年の逸話を、現実的なこととして、いや、政治の常道として言い換えるならば、「メシ」とは「夜」に重ならないか。
夜、メシを一緒に食わなければ、国の命運にかかわることでも我関せずということなのか。そんな思いがあった。
そう、自らの経験からしても、日本の政治の歴史は「夜」作られてきたのだ。
それはともかく、谷垣の判断は、その後の自民党政権復帰、安倍政権誕生には大いに寄与したことになる。もし、大連立を組んでいたら、その後の政治的展開がどうなっていたかわからないから。
しかし、あの時、多くの被災者が苦しみ悲しんでいるとき、多くのボランティアが被災地に向かい、支援の輪を広げ、福島では、子ども達が「放射能」で苦しんでいる時、政治の転換点を「メシを食ったか食わないか」で決めるという事をなんと見ればいいのだろう。
メシを食ったか食わないかで政治が決まると言うこと。
安倍もよくマスコミ人、その関係者とメシを食う。メシを食うと言うことは政治の方向性に関係する。
この二年間で会食なるものは延べ60回。
気心の知れた仲になるにはメシを食うという事が一番大事なことなのだ。
お互いにだ。
永田町の政治の要諦、メシを食う。それにメディアの人間が躊躇なく乗っかると言うこと。
一緒にメシを食った人間は、安倍にとって「信頼がおける人物」ということになるのだろうか。「連立」ではないが「連携」が生まれると言うことなのだろうか。
先日書いた92歳の婦人のこと。その人の姉は初台で一人暮らしだった。
人見知りする性格だったようだ。
家人は声を掛けたという。「なんか困って居ることがあったら、遠慮なく言ってくださいね」と。二回目に声を掛けた時、その人は言ったという。
「お願いがあるの。ランチを一緒にしてくれない」と。
いつも一人で食事をしていることの孤独感から逃れたかったのだろう。
近所の蕎麦屋に行った時、心から嬉しそうな表情をしていたと言う。
そして、とびっきりのオシャレをしてきていたそうだ。
きょうも一人、仮設でテレビを見ながら食事をしている高齢者もいるだろう。
家族そろって夕食の団欒を楽しんでいる家庭もあるだろう。
親子三代が揃って食べる夕食。その楽しみを奪われた家族も多々いるという現実。
とにかく夕飯は家族一緒で。そんな“掟”を作っている家族のあると言う。
同じ釜の飯ではないけれど、例えば運動部の合宿所でも、数十人が一緒にワイワイガヤガヤ飯を食う。それは「団結力」にもつながるとも言う。
人は生きるためにメシを食う。メシを食わねば生きてはいけない。
食事とは一番大事なことなのだ。政界を生きていく、権力との間合いを計りながら生きていく。そのためには「メシ」が必要なのだということ。
何処で何を食うかよりも誰と食うかが問題だ。そんなことを言っていた人もいた。
「メシを食う」ということへの想いは様々・・・。
窮余の一策。菅直人は自民党の谷垣総裁に「大連立」を持ちかけた。救国内閣で乗り切ろうとして。
谷垣は一蹴した。
「菅さんとは当選同期だ。顔は知っている。が、彼とは一回も酒を飲んだことも無いし、メシを食ったこともない。どういう人だかわからない。その人と連立を組むわけにはいかなかった」。
「歴史は夜つくられる」。そんな題名の映画が昔あった。
歴史は夜、大衆が寝静まったころ、つまり知らない間に、気づかない間に、作られていく。そういう意味だと解釈している。
2011年の逸話を、現実的なこととして、いや、政治の常道として言い換えるならば、「メシ」とは「夜」に重ならないか。
夜、メシを一緒に食わなければ、国の命運にかかわることでも我関せずということなのか。そんな思いがあった。
そう、自らの経験からしても、日本の政治の歴史は「夜」作られてきたのだ。
それはともかく、谷垣の判断は、その後の自民党政権復帰、安倍政権誕生には大いに寄与したことになる。もし、大連立を組んでいたら、その後の政治的展開がどうなっていたかわからないから。
しかし、あの時、多くの被災者が苦しみ悲しんでいるとき、多くのボランティアが被災地に向かい、支援の輪を広げ、福島では、子ども達が「放射能」で苦しんでいる時、政治の転換点を「メシを食ったか食わないか」で決めるという事をなんと見ればいいのだろう。
メシを食ったか食わないかで政治が決まると言うこと。
安倍もよくマスコミ人、その関係者とメシを食う。メシを食うと言うことは政治の方向性に関係する。
この二年間で会食なるものは延べ60回。
気心の知れた仲になるにはメシを食うという事が一番大事なことなのだ。
お互いにだ。
永田町の政治の要諦、メシを食う。それにメディアの人間が躊躇なく乗っかると言うこと。
一緒にメシを食った人間は、安倍にとって「信頼がおける人物」ということになるのだろうか。「連立」ではないが「連携」が生まれると言うことなのだろうか。
先日書いた92歳の婦人のこと。その人の姉は初台で一人暮らしだった。
人見知りする性格だったようだ。
家人は声を掛けたという。「なんか困って居ることがあったら、遠慮なく言ってくださいね」と。二回目に声を掛けた時、その人は言ったという。
「お願いがあるの。ランチを一緒にしてくれない」と。
いつも一人で食事をしていることの孤独感から逃れたかったのだろう。
近所の蕎麦屋に行った時、心から嬉しそうな表情をしていたと言う。
そして、とびっきりのオシャレをしてきていたそうだ。
きょうも一人、仮設でテレビを見ながら食事をしている高齢者もいるだろう。
家族そろって夕食の団欒を楽しんでいる家庭もあるだろう。
親子三代が揃って食べる夕食。その楽しみを奪われた家族も多々いるという現実。
とにかく夕飯は家族一緒で。そんな“掟”を作っている家族のあると言う。
同じ釜の飯ではないけれど、例えば運動部の合宿所でも、数十人が一緒にワイワイガヤガヤ飯を食う。それは「団結力」にもつながるとも言う。
人は生きるためにメシを食う。メシを食わねば生きてはいけない。
食事とは一番大事なことなのだ。政界を生きていく、権力との間合いを計りながら生きていく。そのためには「メシ」が必要なのだということ。
何処で何を食うかよりも誰と食うかが問題だ。そんなことを言っていた人もいた。
「メシを食う」ということへの想いは様々・・・。
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