2015年4月7日火曜日

教育が教育で無くなる日

来年度から使われる中学校の教科書の検定結果が出た。

去年の“教育改革”方針決定で、その方向性は予想されていたこととはいえ、やはり驚いた。

「安倍よ、そこまでやるのかよ」。

教科書とは学校教育の中のいわば「基本」だ。合わせて出される学習指導要領が、いってみれば先生の参考書がどうなるのかはわからないが、きっと検定の延長線上にあるのだろう。

慰安婦問題、東京裁判、そして尖閣、竹島の領土問題。政府見解をそのまま記述することが求められその通りになった。

教科書出版社はたくさんある。採択されなければ”経営“はなりたたない。そんな事情もあるだろうが。

我が意を得たりとばかりの「目玉のマーク」の会社の関連出版社の教科書は売れにうれるのかもしれない。

教科書が政府の広報誌となったということだ。

明治政府は、教育に意を用いた。明治政府のやり方はこうだった。
まず師範学校を全国に作る。国の意向に沿った先生を作る。
制服を採用する。同じ服装をさせる。
教科書は国定教科書にする。文部省が決めた教科書だけを使わせる。
全国共通語というのを浸透させようとはかる。方言を“駆逐”しようとした。
その共通語なるもののいわれははっきりしていないが。

だけど「方言」は死ななかった。

来年度からの教科書を与えられて、教師はどういう教育をしていくのだろうか。
ただ、それを教える、覚えさせるということに腐心するのだろうか。

教育とは、単に「知識」を与える場では決してない。考える力を養う場だ。

少なくとも前記した事柄に対して、多様な見方があることを紹介し、どう考えるかを問う、考えさせる。それが教育だ。
単一的な、しかも政府見解の押し付けで、考える子供は育つのだろうか。

育てる必要は無いと思っているのだろう。安倍と同じ価値観を持った子供にすればいいのだろう。何も考えずに政府の言い分だけを信じ込む子供を作っていけばいいのだろう。

個性の無い、統一化された子供たちを作っていけばいいのだろう。
安倍流の教育論としては。


安倍の「コピー」を作ろうということかい。安倍“リトルピープル”を作ろうということか。まさに今は「2Q15」なんだ・・・。

中国、韓国の反日教育へ徹底していた。多くの若者がその中で育った。
安倍はそれを憎しとした。
しかし、安倍のやっていることはそれらの国の“物真似”だ。それらの国と同じようなことをしている。

昨日、テレビではまさに領土や慰安婦の記述について盛んに報道していた。
NHKの夜9時の男キャスターは全く能面のような顔をして無表情にそのことだけを読み上げていた。

2020年の東京オリンピックも教科書に大々的に書かれていると言う。

来年度からの教科書に原発問題、東日本大震災のことはどう記述されているのか。テレビはどの局も伝えなかった。

今朝、新聞を繰りに繰った。扱いは小さい。記事を読む限り、何が書いてあるのかも判然としない。

何故原発が誘致されたのか、それが何をもたらしたのか、そして安全神話が崩壊し、大事故を起こし、多くの人が苦しみを負っている。
そんな記述はあるのだろうか。再稼働反対、賛成の動きがあるとは書かれているようだが。
まさか「アンダーコントロールされている」と書かれてはいないだろうな。

被ばくの健康への影響についても、どれだけの記述がされているのだろうか。
中学生は影響を受けやすい年頃なのだ。
安全基準が文部科学省の言うがままの「数値」にされているのかどうか。

物を考えない大人が増えた。さらに物を考えない子どもも増やそうということか。それは本来的な意味での「教育」に反する。

教育が教育で無くなる日。現場の教師がどう考えているのかを知りたい気もする。教師の“苦悩”が始まる日なのかもしれない。

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