2015年4月15日水曜日

それは「福島の事故に学んだ」決定ではあったが

福井県高浜原発3,4号機の再稼働について、福井地裁は運転を禁じる仮処分決定を出した。
大飯原発でも差止めを命じる判決を出している裁判長の判断だ。

今回の決定、それは原理力規制委員会の基準が「緩やかにして、合理性を欠くもの」としての判断。
原発そのものについてでは無い。

この決定の影響は大きい。しかし・・・・だ。

決定後、原告の住民は「司法はやはり生きていた」と用意されていた紙を掲げた。
弁護士は高揚していた。

でも「はしゃぎ過ぎ」ではないのか。

全国の立地地域で起こされている裁判。この種の裁判は法に照らしての司法判断だけではなく、裁判長の“意志”が“価値観”が組み込まれている。

他の裁判で、司法が、つまり例えば鹿児島地裁も同じ判断、決定を出すかどうかは、裁判長や裁判官の「人としての判断」なのだ。
違法行為としているわけではないのだ。

樋口裁判長は、大飯でも「人格権」という判断を用いている。
つまり、福島の事故では人格権が全く損なわれたということだ。

でも、他の裁判で、その裁判所が同じ視点に立てるのだろうか。

一石は投じた。しかし関電は“控訴”や“不服申し立て”をする。高裁、最高裁まで行くかもしれない。

有体に言えば「取りあえずは再稼働が出来ない」という事実だけだ。

なにせ福島で災後にあった裁判。飛散した放射性物質を「無主物」という論理を展開した司法だってあるのだから。

選挙の違憲判決だって合憲も、違憲状態も、違憲・無効の判断もあったように、裁判所の判断は分かれるは必定なのだ。とも思ってみる。

「司法」という大きな括りで「生きていた」と大歓迎するは時期早尚じゃないのか。

これが「スタート」なのだと気を引き締めなければ。これからが「山」なのだ「谷」なのだと思っていなければ。

またもやあの官房長官が言ってくれた。「再稼働に向けて“粛々”と作業を進める」と。

辺野古に対しては、気分を悪くするのならもう使わないと言っていた“粛々”。
そう、彼の“粛々”は“断固”やるってことだろう。

沖縄では断固作業は進めている。知事が反対しようとどうしようとお構いなし。
政権に楯突くマスコミは恫喝によって屈服させた。教育界にもその“魔手”は伸びる。教科書の検定。
アイヌの土地を奪ったのに、土地を与えたとする、それこそ歴史の歪曲。
東北は蝦夷の地だった。
アダタラ、アブクマ・・・アイヌ語に由来する。そこは「与えられた土地」ではない。中央によって収奪された土地なのだ。

そして「我が軍」思想による集団的自衛権の行使“拡大”。

政権はさっそく「司法対策」に乗り出しているのだろう。
司法も屈服させようと動くのだろう。
政権に三権分立なんていう意識は皆無だ。

裁判官の人事権は法務省にある。

最高裁まで行けばお手のもの。「政治的問題は司法判断に馴染まない」と差し戻しが待っている。最高裁長官は首相が任命権を持つ。

そんな危惧は大いにある。でも、取りあえずはこの樋口裁判長の判断をもろ手を挙げて歓迎する。

規制委員会の権威は地に落ちた。どう立て直すかだ。

この仮処分決定がすべての帰結ではないという事。難関は、この高浜にもまだまだあるということ。ゆめゆめ忘るべからずと。

それにしてもだ。福島の事故がなかったらこんな司法判断は全く無かっただろうと。だからもっと福島を学んでほしいとも。

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