2015年4月22日水曜日

全ては個人の「主観的判断」なのであり

原発の再稼働をめぐって、福井地裁は再稼働差止めの仮処分を決定した。
その裁判長は判断の基準を「個人の人格権」に置いていた。

再稼働は人格権を否定するものだとした。規制委員会の安全基準なるものを“信頼できないもの”として、判断の埒外に置いた。

原告住民や弁護団は「司法は生きていた」と喜び勇んだ。
それが「ぬか喜び」になると思った。
メディアの中には他の裁判に大きな影響を与えると書いてはいたが。

川内原発。再稼働差止めの提訴を裁判所は却下した。規制委員会の新規制基準を「最新の調査・研究を踏まえており、内容に不合理な点は認められない」とした。
そして、前田裁判長は「具体的危険性を検討しても申立人の人格権が侵害されるおそれは認められない」と判断している。

原発についてどう判断するか、どう考えるか。
この種の裁判は、すべからく裁判長や裁判官の「主観」のよるところが大きい。
いや、全くの主観なのだ。

やはりこの原発再稼働の問題は、司法にはなじまないものかもしれない。
原告は即時抗告したが、川内では再稼働へ向けての動きが加速するだろう。

原発はやはり政治問題なのだ。規制委員会なるものは、その政治判断の「具」にされているに過ぎないのだ。
規制委は「絶対な安全は無い」と委員長も言っている。それをどう受け取るかは主観だ。

安保法制をめぐる議論だって、改憲論議だって、それは政治家の主観に基づいている。歴史認識だってそうだ。

客観的判断なんてものは存在しないという事なのだろう。

マスコミ問題だってそうだ。

客観的報道というお題目だけが言われてきた。それは公平、中立ということから生まれた“発想”かもしれないが、客観的報道なんて有り得ない。

対立する二つの意見を並べて書くことが客観的だなんてことも在り得ない。それは「小手先細工」のことなのであり、そこにあったことを書くという事自体が、それをニュースにするという事自体が、すでにして記者の主観に基づいているのだ。

主観的と言われることを避けるために、皆んなが横並び報道に走ることを良しとする。

ニュースの価値、価値判断。それは主観によるものであり、だから多様な価値観が生まれるのであり、それが概念としての「民主主義」なのだ。

カオスの名はカオス。

原発が生まれた時から、この言葉は蘇ってきているはずだ。

原発をめぐる司法判断に一喜一憂しているのは、他人事のようで失礼かもしれないが、その司法の手に委ねるしか方途が無いにしても、司法とて「カオス」の中に埋没しているということ。

首相官邸に「ドローン」が落ちた。そこには放射線も検出されたという。カメラも搭載されていたとか。
墜ちたのではない。そこに向かって飛ばしたのだろう。そこに着地させたのだろう。

ドローンとテロ。素人でも想定されていたこと。そんなちょっとした想像力も働かない人が、科学文明の成果だとしてもてはやしていたことの滑稽さ。

“お笑い草”の種なのだ。

これでわかっただろう。ドローンという“文明の進化”が、何者かが意図さえすれば、原発施設の上に飛び、そこから悪さを仕掛けることだって出来るのだ。

規制委員会の新基準、そこに「ドローン対策」を明記しては如何かとも揶揄したくなる。

「もう笑うっきゃないぜ」。それが亭主の目下の主観的判断なのであります。

“チェルノブイリ”異聞

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