2015年4月10日金曜日

「福島」と“哲学”と

2011年3月11日後、しばらくしてから、そこに起きていること、そこにあることが何を物語っているのか、全くのように判然としていない時、ネットのツィッターには、多くの「哲学者」の言葉が溢れていた。

古今東西と言ったらいいのかどうか、とにかく“哲学者”の言葉が絶え間なく流されていた時期があった。

様々な「語録」が。

おそらく、どこかに「心の安寧」を求める作用が働き、それが受け入れられていたのだろう。

そして今、哲学が、あの頃の延長線としてかどうか、“人気”があると言う。

塾でも哲学の話を数回にわたって話しした。
福島と哲学、哲学における福島。そして、フクシマは哲学の実践の場だとも。

すべてとは言わないまでも、世界が“激動期”にある時、後世語り継がれるような哲学者が登場し、その人の言葉で、出来事を読み取ろうとする。

サルトルが登場したのは「ナチス」の故だったのかもしれない。
安保闘争時、吉本隆明が登場したのも、この国が激動の時代だったからということか。

「正しいと思っていた前提が揺らいだとき、人は哲学を求める」とも言われる。

まさに“安全神話”が崩れ去った時そうだったのだ。

「哲学が求められている時代は不幸だ」。そんな“逆説”とて成り立つ。


昭和39年、東大の総長だった大河内一男が卒業式でこんなことを言った(とされる)。

「肥った豚よりも痩せたソクラテスになれ」。

時代は高度成長にまっしぐらだった時。どこかで「考えること」を止めた若者や大人がいた時。

この言葉をめぐって東大教育学部長の石井洋二郎という人が、先ごろこんな“秘話”を明かした。 教養学部学位記伝達式の式辞で。

この言葉は大河内総長が考えたものではない。イギリスの哲学者、ジョン・スチュアート・ミルの『功利主義論』という論文からの借用したものだと。
さらにミルは「痩せたソクラテスになりたい」と言っていると。

事の細かい経緯はともかく、この「故事」を引用してこの学部長はこう指摘していた。

皆さんが毎日触れている情報、特にネットに流れている雑多な情報は、大半がこの種のものであると思った方がいいということです。そうした情報の発信者たちも、別に悪意をもって虚偽を流しているわけではなく、ただ無意識のうちに伝言ゲームを反復しているだけなのだと思いますが、善意のコピペや無自覚なリツイートは時として、悪意の虚偽よりも人を迷わせます。そしてあやふやな情報がいったん真実の衣を着せられて世間に流布してしまうと、もはや誰も直接資料にあたって真偽のほどを確かめようとはしなくなります。

あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみることが「教養」というものの本質なのだ」と。

大河内総長の言葉だと思っていた。

3・11後、哲学者の言葉とともにデマや誤解、虚偽の情報、それらが「拡散」されていた。多くが“過剰反応」だった。

人は“第一次情報”として、始めて接した情報がインプットされてしまう。後からその間違いに気付いても、“デリート”はおろか“上書き”すら出来ない。

それは「福島は危険だ」という人達の思い込みによって、うまく作り上げられているものもある。そして、それは、今も続いている・・・。

哲学ということが考えることであるならば、生き方を確認することであるならば、「哲学の場としての福島」は存在しているのだとも。

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