2015年4月24日金曜日

地方選挙と「民主主義」というお題目

地方統一選挙の後半戦が今度の日曜日に投開票される。
なにやら全国的なおおまかな傾向として、「無投票」が多いという。
市町村長、地方議会議員選挙。

過日、NHKの夜9時のニュースを見ていた時、あの最近代わった“能面キャスター”(そう勝手に名付けている)がしたり顔で言っていた。

無投票が増えるという事は民主主義の危機ですみたいなことを。民主主義の在り方が問われています。みたいなことを。

おもわず、また無意味なことをした。テレビに向かって怒鳴っていた。
「ばかやろう、もっと気の利いたこといえないのか」って。

地方選挙の様を見て民主主義に結びつけるっていささかおかしい。いや、まったくおかしい。

民主主義、それは英語のデモクラシーから来た言葉だ。
デモクラシーとはギリシャ語の「デモス」と「クラトス」を重ねた“造語”だ。
デモスは民衆、クラトスは力。

それこそ大昔、ギリシャでは政治を決めるためにアテナイあたりの広場に民衆が集まり、大いに議論を交わし、その結果出された民意、民衆の力を王に示していたとうことなのだろう。

「権力は人民に由来し、権力を人民が行使する考えと、その政治形態」と辞書には載っている。

基本的人権、自由・平等がその理念であり、その「属性」として多数決の原理とか法治主義があるとされている。

この世の中、毎日のように、「民主主義」「民主主義」が言われ、誰しもがそれを口にする。さまざまな場面でその言葉を用いる。使われるだけ、それは色褪せてくるかのような。

日本は民主主義国家である。それは明治時代でもあの時代の民主主義があった。
大正デモクラシーという言葉や、その形態は語りつがれている。

民主主義の反対語は。独裁主義とか全体主義とかいう表現しか見つからない。
安倍が独裁政権を、独裁政治を目指している。その指摘は理に適ってはいる。
しかし、彼自身は民主主義だと言い張る。

民主主義と言う言葉の「大安売り」。だから、それの「価値」が見えなくもなってくるのだ。

主権在民と言う民主的な方法で選ばれた議員さんが、果たして民主主義の正しい履行者か。
民主主義の属性として、いわば制度の一つとしてある選挙。その選挙制度そのものも、今の制度はいかがわしいのに。

そして多数決の原理。それには付随して「少数意見の尊重」という事が“決められて”いる。しかし、現実、少数意見は切って捨てられるような存在。

だから、何をもってして、地方選挙の候補者が少なく無投票当選者が出るということを民主主義という理念を用いて語るのか。

NHKには言いたいよ。世間の民主主義を偉そうに言う前に、お前らの局内民主主義はどうなっているんだよと。会長独裁に甘んじているくせにと。

民主主義が問われている。キャスターも新聞の論説・社説もだ。相手が誰かを特定しないで言葉だけ放り投げて「いい仕事」をしたつもりなんだろうか。

きっと「政治に無関心」だとする民衆を責めているのだろう。なんで無関心になるのか。
民主主義と言う言葉の濫用に飽きてきたからかもしれない。いや、それよりもなによりも民主的方法である、一つの制度にしか過ぎない選挙で選ばれた、議席を手に入れた「センセイ」たちが、政治をつまらない物、魅力の無い物にしちゃっているからだ。
政治に無関心な民衆を責める前に、民主主義なるものをろくに理解もしていない、「いるだけ政治家」を責めろよ。

福島に民主主義はあるのか。無い。基本的人権が侵され、脅かされたままなのだから。

そして、そのことを恥ともせず、選挙の票稼ぎに奔走しているような県選出国旗阿銀さんよ。県民のデモスとクラトスをどう受け止めているんだいとも。

「使い捨て民主主義」って言葉さえ浮かんでくる。

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