2014年3月31日月曜日

風に吹かれて

凄い風だった。強風だった。今もその余韻が残っている。
風はどこにでも“平等”に吹く。
鉄筋コンクリートで建てられ、大きな外壁に覆われた家にも、木造家屋にも、仮設にも。
落ち葉を拾い集めていくような時も、土台だけがむき出しのかってそこに家があったところに、ただ砂塵だけを巻き上げるようにして。
クレーンが林立している原発事故現場にも。
だれも防げない、誰もとめられない。

夜半、風の音を聞きながら、防ぎようも無い気ままな風に半ば怯えるようになりながら、ボブディランの音楽が浮かんできていた。

「風に吹かれて」。Blowin' In The Wind。

なぜかこの頃、昔の音楽が懐かしい、いや、恋しい。きっと年齢のせいかもしれない。

風の轟音に注意力を妨げられながらも、フィギアスケートのエキシビションを観ていた。
浅田真央が使った曲。サッチモのWhat a Wonderful World.
1960年代後半にヒットした曲だ。その頃の”映像“が浮かび、たまらない気分になる。そう、もしかしたら、あの頃は「ワンダフルワールド」があると信じていたからかもしれない。

でも、ワンダフルワールドは無いんだろうな。世界の終わりとハードボイルドワンダーランドはあるかもしれないが。

♪風に吹かれて♪。
どれほど人は見上げねばならぬのか
  ほんとの空をみるために
  どれほど多くの耳を持たねばならぬのか
  他人の叫びを聞けるために
  どれほど多くの人が死なねばならぬのか
  死が無益だと知るために
  その答えは 風に吹かれて
  誰にもつかめない
訳詩の一部。そして、“誰もつかめない答え”について、ボブディランはこんなコメントを残している。
「答えは風の中で吹かれているということだ。答えは本にも載ってないし、映画やテレビや討論会を見ても分からない。風の中にあるんだ、しかも風に吹かれちまっている」。

以前、昔、テレビについて語り合い、書いていた頃。こんなことを言って覚えがある。
「テレビはテクノロジーの進歩によって、リアルタイムを獲得した。そして感性に訴える報道に傾斜した。現象面だけを追い、ジャーナリズムとして機能しなくなっている」。
もちろん、デジタルなんて言葉が出てくるずっと前のもの。それは笑えるくらいに同じ状況だということ。

豊かな国、飽食の国、安全、安心な国、大量消費を促す国。使い捨てになった国、物を大事にしなくなった国・・・。
そんな「風」を巻き起こしているのは、ボブディランの頃も然り、今も然り。

ワンダフルワールドへの“エクソダス”も不可能だ。

風化・・・。そう、風が運んで行ってくれればいい。テレビが風化させてくれればいい。金持ち目当ての“現象面”だけ追ってくれればいい。貧乏人を笑いの的にすればいい。なまじっか、正義面して“同情”してくれなくてもいい。

金持ちによる、金持ちの、金持ちのためのテレビなんだから。
「風の影響で、予定されていたAKBの大イベントが中止になりました」。それがニュースなんだね・・・。

ほんと、なんだろう。今、世間に吹いている風の正体は。

普段はほとんど読まない地元紙。たまたま手にした今日の地元紙。特集企画。
風化が進み、風評被害は改善されず。「復興」の影。サブ見出しにはこうあった。「風に惑う」と。
だったら「新しい風」でも起こしてみてよ。テレビと同じじゃないか。現象面だけ追いかけているってことで。

2014年3月30日日曜日

強い国とは弱い者いじめの国のような

小さいころ親に言われ、小学校の頃は先生に言われた。
「よわいものいじめをしてはいけません」と。それはつまり「道徳」の一つだった。

一人の王様と、その王様に追随している家来たちは、ひたすら「強い国」になることを目指している。強い国とは経済成長だと思っている。

文部科学省の調査結果だったか。高収入家庭の子女は勉強がよく出来て、いい学校への進学率も高い。低収入家庭の子供は進学率は低いし、あまりいい学校に、偏差値の高い学校には入れない。お金持ちの家の子は「いつやるの、今でしょ!」のような学習塾に通え、東大に行ける。カネのない家庭ではそうはいかない。そんな“傾向”だとか。金持ちの子が東大に行って、高級官僚になる。カネのありがたみを知っているから、金持ちのための施策を考える。

ま、下衆の勘ぐりと言われてしまえばそれまでだけど。

カネの無い家の子はどうやって学習能力を高めるか。読書だという。
別の調査結果では大学生の約4割が、この一年間に一冊も本を読んでいないという。

高度経済成長。それがもたらしたのは、大量生産、大量消費。強い国を目指す王様はその理論を忠実に実行しようとしている。

消費拡大、消費拡大が合言葉だ。

「3・11」で経験したことの一つが、その生産者と消費者の問題。風評被害なるものともあいまって。
言われた事の典型。「福島の生産者は、放射能の入った食品を作り、消費者に健康被害を与えている」と言ったような。
電力の生産地福島。消費地首都圏。

生産と消費と言う言葉が、“分断線”のようにも聞こえ、もう聞き飽きたって感じかな。

消費拡大、それはつまり使い捨て文化の醸成。まだ使える物を買い替えろ。エコカー。その「エコ」ってエコロジーのエコの筈がいつの間にかエコノミーのエコになったような。思いついた一例だけど。

きのう書いたスマホの件、ipadカバーの件。まだ十分使えるものなのに「古い型」とされ、それは片隅に追いやられているという感。

インターネットが出来るってことでスマホなるものを買った。今は二台目。もうその後に新機種が多数登場している。そんない容易に買い替えられないよ。
スマホと手に入れたら、すぐipadが登場してきた。スマホを持つ必要性が薄れた。そのipadとてすぐに新機種、新機種。そりゃ儲かるわけだよな。古いものは時代遅れにされちゃうんだから。
デジタル機器の華々しい使い捨て・・・。

あれだけテレビで広告打たれりゃね・・・。

そして明後日からの消費税増税。増税対策の名のもとに買いだめ、買占め。買え、買え、買え。今ならお得の商法。皆、それに踊らされ。気がつきゃ酒もたばこも切手も“値上げ”。あらゆる運賃も。
片や無駄な公共事業のオンパレード。

3%。たかが3%、されど3%だ。低所得者には大きい負担だ。低所得者が日本経済を支えるってことなのかい。屁理屈だけど。

あらためて思う、冨者はより富み、貧者はより貧しくなるの感。

来月以降、消費の衰退が予測されるという。買い控えが起きると言う。きっとまた、「買え、買え、買え」の新商品が登場してくるんだろうな。

“どんどん進む世の中にはついていけず、困ったと言って死ぬわけにもいかず”。
90歳と95歳の老夫婦の言葉が染みるよな・・・。

弱い者いじめっていけないことだと思うんだけどな。昔人は。勝ち組、負け組って色分けもまた世の中通用してるんだろうな・・・。

2014年3月29日土曜日

風という字に恨みはないが・・・。

春の風は心地よい。つかの間、阿武隈川の河畔で、春の風の声を聴いてきた。
そして、思いはまた・・・。

福島はさまざまな風にさいなまれ、悩まされ、苦しめられてきた。いや、苦しめられている。その風は進行中―。

原発事故。当時吹いていたのは北西への風。その風は放射性物質を運び、きままに運び、ホットスポットなるものをつくり、時には風向きを変え、県外までも飛び火させ。

13万人が事実上家を失った。若松丈太郎の詩ではないが、神隠しにあった街が出現した。

そして、風がもたらしたものを見た。

風評、風化、再稼動を目指す風、風潮。何にっ問えたらいいかは難しいが、“風前の灯”なんて言葉も浮かぶ。

風、風潮、空気・・・。人間のだよ。

消費税増税という、それをめぐる人それぞれの動き。消費という言葉が「美徳」ともされているような空気。

スマホとipadのカバーが不具合になった。買いに行った。驚いた。機種が古いからがっちするものが無いというお返事。

美徳としての消費に踊らされるように、なんでも当たらしい物が次々に市場に出回る。席巻する。古いもの、わずか数年前の物であても「淘汰」されているような。

嫌な風だ。

先日書いた「万葉集」のこと。それを読んでくれた人が、HDD録画していたといって歌を書き起こして送ってくれた。嬉しい風の便りだ。

そこにある「風」という文字が入っている句。

「海風がみちびく 一艘また一艘 この空をゆく おかえりみんな」

「ひたひたと胸を打つ波魂の彷徨う郷を吹く風の果て」


もうこれ以上、逆風よくるなよ。海も陸も凪ぎであったくれよ。

阿武隈川をわたる風は“沈黙”だったような気がする・・・。

やはり風は気儘なのだろうか。

2014年3月28日金曜日

「耐えがたいほど正義に反する」

袴田事件の再審開始決定。そして釈放。
裁判長はこう言った。
「拘置の続行は、耐えがたいほどの正義に反する」と。

中学生の頃か、高校に入っていたか。「松川事件」の映画を観た。何故見に行ったのか、誰と行ったのか記憶にはないが。ラストシーン。
“まだ、最高裁があるぞ”と接見室の窓枠につかまるようにして絶叫していた死刑囚の姿・・・。

その映画を観て、将来、司法の道に進みたいと思った。そのための勉強もしたが、果たせなかった。言ってみれば挫折。それとメディアの道に進みたいという願望とのひっぱりあい。結果、司法は断念した。

その時は、青臭い青年は、司法には正義が存在すると確信していた。そして十数年、数多くの司法に関する出来事、裁判や検察、弁護士。
そこに正義が存在することを疑う出来事が沢山あった。

司法にすら「正義」が存在しない。そんな“確信”に変わった。検察の正義とは時の体制を崩壊させないこと。警察の正義は、とにかく犯人を見つけだすこと。犯人を作ること。そのためにはあらゆる手段を駆使するということ。
そして、最後の砦である裁判所は、その法解釈も含めて、恣意的な判断がくだされるということ。などなど。

袴田事件で静岡地裁の村山という裁判長は、ようやく再審を認め、かつて下されていた、いくつもの、最高裁の判決も含めて、すべての先件を否定した。そして「正義」という言葉を使った。

正義の名の下に、48年間拘留され、死の恐怖におののく毎日を過ごしていた人がいる。その人に「耐えがたいほど正義に反する」という見解を示した。
正義であるべき警察や検察の捜査を「ねつ造」と判断した。

「正義」について考えている。

何が正義であり、何が正義ではないかということ。屁理屈のようだが、世の中すべてが正義であれば、その言葉は存在しない。不正義があり、それが横行しているから正義とう観念が存在するのだと。

不公平、不平等、差別、ねつ造、欺瞞・・・。すべて「正義」に反することが、この福島の地には存在している。その「不正義」を司法は果敢に裁こうとしない。判断することを避けている。

「フクシマ」は、そのあらゆる矛盾と不正義に完全にさらされている。


そして例えば政治の場では、倫理観も含めて「不正義」に該当することが公然と行われ、暴かれると言いわけに終始する。

大国は戦争を行う。彼らは言う。「正義のための戦争だ」と。

強者と弱者が存在する。強者には強者の正義があるのだろう。弱者にも弱者の正義があって然るべきだ。弱者がいるから「強者」が生まれる。
不正義がはびこるから正義が言われる。

雇用の場でも、経済の場でも、商取引の場でも、例えば「下請けいじめ」と言われる“耐え難く正義に反する行為”が行われている。
多くの人は、それを“他人事”として見て見ぬふりをし続ける。見て見ぬふり、知らんぷり。これとて大きな概念の一つとして正義に反してはいないだろうか。

およそ社会正義とはかけ離れたところに身を置く羽目になった13万人の福島県人。
彼らにとっての正義とは。フクシマにとっての、フクシマの正義とは・・・。
だれがそれを判断するのだろうか。

だから、この際、この社会が包含するあらゆる矛盾や不正義をすべて洗いだす作業にとりかからねばならないのかもしれない。
それが、「今の正義」を考える上での要諦になるかもしれないから。

「戦争が終わる度に、誰かが後片付けをしなければならない。何と言っても、ひとりでに物事が、それなりに片づいてくれるわけではないのだから」。
ポーランドの女流詩人、ヴィスワヴァ・シンボルスカの詩の冒頭だ。
せめて「後片付け」の作業を正義と捉えてみるのも悪くない。

シンボルスカがノーベル文学賞を受賞した時、記念講演でこう述べている。
「どうやら、これから先も詩人たちはいつも、沢山の仕事があるようです」。

せめて司法という場に置いては、正義のための沢山の仕事があることを、それに携わる人達すべてに“覚悟”してもらいたいとも思うのだが。

2014年3月27日木曜日

そして「再放送番組」が消えた

今月19日、夜10時。NHKに「3・11万葉集」という番組があった。
「3・11」を経験した、家や家族を失った人、原発事故で家を失った人・・・。
その人たちの中で短歌という形で、三十一文字に言葉を凝縮させて、10数人の市井の人たちが、(市井を“しい”と平然と読んでいたアナウンサーがいたな、番宣で)泣きながら詠み、泣きながら吐き出した言葉。

番組に見入っていた。時々、その詠まれた短歌をメモに書きとめようとしたが、見ることがおろそかになる。だから、ただ見入っていた・・・。

正月、家に一時帰宅した人。立派な門松を据え、「この家は壊される。地震で半壊以上になっているらしい。終わりだな。これは“死化粧”ですよ」と門松の前で言っていた。その家だったか。庭にはゆずり葉が植えてあった。

避難するときに家に飼っていた犬の鎖を離した。「生き抜けよ」と言って。
いわきの高校生がつらい胸中を詠んでいた。書いては消し、書いては消し、本心を書いた。
生活の音も何も無い。足音も何も無い。

再放送があると告知されていた。再放送を見ながら、歌の数々を書きとめようと思っていた。

再放送は、NHKのホームページでも3月26日午前1時25分と書かれていた。番組で取り上げられていたいわきの高校生も、学校のホームページで、再放送の告知をしていた。

26日、つまり一昨日、いや昨日の早朝。
その時間にその番組は無かった。やっていたのは国会中継の録画。NHK予算の審議風景。延々と・・。総務委員会。
今夜も放送があるみたいだ。録画の委員会の模様が。

誰が見るのだろう。深夜の国会中継録画を。誰も見ない。そこにあるのは「放送した」という足跡だけ。

この中継録画放送。籾井会長の発言問題の余波なのだろう。かつて今は総務委員会、昔は逓信員会。NHK予算は国会承認マター。放送された時もそうでなかった時もあった。野党の一部が、本来は全会一致を建前としているNHK予算委に反対する。

もちろん成立するだろうが、「国会対策」としての深夜の録画放送・・・。

横道にそれるが・・・。安倍人事。安倍好みの人事。日銀の黒田総裁、NHKも籾井会長、内閣法制局長官の小松。
どこか似てると思いませんか。その驚くばかりの傲慢さ。発言も態度も。強い感じの人ばかりですよね。安倍さんは強い人がお好きなんですね。
自分も強い政治家だと思っているんでしょうね。

国会議員をバカにしきっている。舐めている。歯牙にもかけない。共通項として。舐められっぱなしの「おらがセンセイ」。悔しくは無いのでしょうかね。

3・11万葉集を見ながら、メモした一句だけは手元にある。
「あの道もあの角もなし閖上一丁目 あの家も無しあの庭もなし」

番組の前後に、新聞の歌壇だったか。出会った句がある。
「山なりにカーブを切れど三陸の 見慣れた町のどこにも着かない」

きょうは木曜日。東北地方だけは見られる「被災者の声」のOA日。
岩沼市の高台移転、集団移転にかかわる悲喜こもごもの話題だった。

「3年前より、今の方が涙が出るね」。一人の年寄りが言っていた。

嫌いな言葉だが。風化ということが日常の話題にもならない、語られないから、伝えられないから忘れてしまっている。それに一因があるとするならば、NHKはその「使命」を果たして欲しい。会長がどんな人であろうとも、ニュース番組には介入し、現場は意向を忖度するとしても、被災地の人たちの姿、日常を伝えることになんの異があろうか。

テレビが出来ることをテレビがやる。テレビでしか出来ないことをテレビがやる。長年禄を食んできたものの一つの“哲学”。
ただひたすら再放送を待つ。

2014年3月26日水曜日

「不信」の中での“苦渋の決断”

今、福島県は、いや一概に福島県というくくりで語ってはいけない、真実の姿を語っていないと思うが、少なくとも原発事故の影響を受けた人、避難者も、今、浜通りに暮らしている人は「限りない不信」の坩堝に身を置き、苦しみ、悩み、嘆き、諦め、“苦渋の決断”を強いられている。なぜ“苦渋の決断”と書くか。その言葉は、人の心中を推し量る上でのマスコミの常套句になっており、的確な表現手段ではないと思うから。

「不信」という実態、空気に覆われた中で、多くの人は疲れ果てている。何も信じられない。吐き捨てるように言われる言葉は真実をついているような。

そして「不信」はさらに増幅されるだろう。

「レバ・タラ」を言う気は無いが、あの事故の後、東電や政府、自治体が「嘘」を言わなければ、それは意図した嘘であった場合もあるし、意図せざる「嘘」もあったが、嘘はばれる。ばれ続ける嘘。それが「不信」となる。
もし、あの時、嘘や隠し事、それが自己保身に起因するものであったにしろ、嘘が無ければ、今置かれている事態は変わっていたのかもしれない。

事故対応、汚染水、賠償。あらゆることでの東電に対する、国に対する不信はぬぐいようが無い。増幅している。増加、増加・・・。

汚染水の増加を抑えるため、建屋に流れ込む前の地下水をくみ上げて海に流す、いわゆる「地下水バイパス計画」。それを県漁連が容認した。新聞は“苦渋の決断”だとやはり書く。

汚染水をためるタンク。その敷地だって限度がある。タンクの増設だってままならない。建屋に入る前の水を迂回させて海に流す。
それしか方法は無いだろうと思う。なにせ「能力」として、建屋からの溶けだした燃料を除去するなんて出来ないのだから。
そういう現実なのだから。

なぜ漁連が躊躇してきたのか。なんでもない水を流しても、そこに「風評被害」が発生することが目に見えているから。
多分、バイパスで水を流し始めたら、東京あたりの反原発団体や、“賢い消費者”という名の愚か者たちが、またぞろ風評を流すだろう。

多くの人が、「アンダーコントロール」が嘘だったということに気付いているから。

これまでの度重なる汚染水漏れ、人為的ミスで納得してしまって来た。ALPSの故障。漁民にとっては限りない不信に突き落とされているのだ。

それでも彼らは「行き場を失うであろう汚染水問題を見て見ぬふりは出来ない」という。諸手を挙げて賛成なんて言う人は誰もいないはずなのに。
最早、今は・・・。

「もし、汚染水が出たら福島は漁業も農業もおしまいだ。命の瀬戸際なんだ」と言う。

タンクは1年で敷地からはみ出す。もはやタンクも限界だと東電は言う。見た目にもそう思えるがこの東電の言っていることが本当の事実なのか。

バイパスに流す水は国の原子力対策本部が独立行政法人と言う名の第三者に委託して検査するという。水の状況は国の現地職員が確認に立ち会うという。

漁連は、そんな条件を受け入れた。

でも、心のどこかでは思っている。その検査や確認が正確なのかと。国に対する不信感が生んだ結果だ。

帰還問題を巡っての放射線量測定でも、国は「ちょんぼ」をやった。隠した、嘘の数字を出してきた。

もう国は信用できない。そんな空気が蔓延している。それの良し悪しはともかく帰還問題はまたも紆余曲折をたどることになる。

「強制移住だ」と声高に言っている人がいる。正義だと言わんばかりに。そんな言葉では何も解決しないのに。

不信の坩堝。もはや解消は無理だろう。ならばどうする・・・。
言うがまま、されるがまま、「諦め」の世界に行くことか。

ボクは特に福島県というところに郷土愛なんていうものは無い。単なる居住者だ。
だけど、およそ、世の中にある“平等”に“不公平”というという「感覚、思想」に腹が立って仕方がないのだ。

いくら福島の米は安全だと言っても、それが給食に使われることに猛反対する親がいる。それとても「不信」の為せる業。
行き場の無い、やり場の無い怒りを抱えて、当事者ではないボクですら、いい加減疲れているのだ。

2014年3月25日火曜日

「熱い胸と冷たい頭」。卒業式で語られたこと。

埼玉県の飯能市に「自由の森学園」という中・高校がある。そんなに歴史が古い学校では無い。知り合いがそこの学校の寮監をしていた。その縁から、当時の経営者の人達と知り合い、行く詰まった学校経営のことで相談を受けたことがある。ほんのちょこっとだけだったが。触れ合いは。

いわば、当時の「落ちこぼれ」を集めて、自由に文字通り学ばせるという方針の学校だった。
そして、芸術家や自由人、文化人の多くを輩出する学校になっている。

数日前、その学校の卒業式があった。そこでの校長の送る言葉をネットを通じて知った。

素晴らしい式辞だと思った。その学校の卒業生だけのものにしておくのはもったいないような言葉が送られていたから。その言葉を送られた卒業生たちは見事な社会人生活をおくるかもしれないとも思ったから。

今年の卒業生はいわずもがな3・11の時の入学生だ。震災の影響で入学式も遅れ、満足な式ではなかったはず。
被災地に足を運び、さまざまな活動をした子もいる。外遊びの出来ない福島のこどもたちを自由の森に来てもらい、一緒に遊ぶという活動に参加した生徒もいる。
原発や放射能の問題に取り組んだ生徒たちもいたという。

そんな3年間を送った子供たちに校長はこう言っていた。
「一つの言葉を紹介する。それはイギリスの経済学者マーシャルの言葉。“熱い胸と冷たい頭”だ。
支援しようとする人は、支援を必要とする人達を思い、その力になりたいと願う熱い心。熱い胸がなければならない。また、その熱い思いを生かすには、どのような条件や方法、行動が必要なのかを見極める冷静な判断や科学的認識がなければならない。

この言葉は、さまざまな困難な状況に出会った時、この状況をなんとかしたい、なんとかしなければならないという“熱い胸”はもちろん大切だが、熱い胸だけで突き進んでいくことや、判断してしまうことの危うさをも説いている。熱い胸の実践を生み出すためには“冷たい頭”が必要なのだということを言っている。
冷たい頭とは表面的なことだけで決めつかるのではなく、その背景にあるもの、つまりは“目に見えないもの”を見ようとすることだ。それは“新たに学ぶ”ということなしには出来ないことだ。

熱い胸を抱き、冷たい頭で考えようとすることは、つまり、学び続けることだ。そして、その先に新しい考え方、新しい物の見方、新しい未来が見えてくるものだと思っている。

学ぶことは仲間とつながること、学ぶことは社会に参加すること、学ぶことは自分自身を発見すること。これを胸に刻んで欲しい」。

要約すれば以上のような内容だった。

最後の締めがまたいい。「健闘を祈ります。卒業おめでとう」。
健闘を祈る。卒業生に未来を託したということ。

知る・学ぶ・考える。その三つの思考の連鎖を怠るな。そう塾生には問うてきた。投げかけてきた。見えないものを見る目を養しなえとも。

期せずして、この校長の式辞の言葉と合致している。そう感じた。


「肥えた豚より痩せたソクラテスになれ」。有名な東大の南原総長の卒業式での訓示の言葉を、有名な言葉を思い出す。
そして、結果、肥えた豚にも似た人達の集まりに馴染んで行った人達もいたことを。

自由の森学園の卒業生がどんな道を歩むのか。希望を託してみたいと思って・・・。

間もなく入学式の時期だ。そこでどんな言葉が聞かれるのだろう。
一つの言葉によって、人の一生が左右されることだってある。

“チェルノブイリ”異聞

  ロシアがウクライナに侵攻し、またも多くの市民、日常が奪われて行く。 ウクライナという言葉、キエフという言葉、チェルノブイリ・・・。 そう、あの最大の原発事故を起こした地名の幾つか。 「チェルノブイリ原発事故」。1986年4月26日。 ウクライナの北部にあるその...