2014年3月28日金曜日

「耐えがたいほど正義に反する」

袴田事件の再審開始決定。そして釈放。
裁判長はこう言った。
「拘置の続行は、耐えがたいほどの正義に反する」と。

中学生の頃か、高校に入っていたか。「松川事件」の映画を観た。何故見に行ったのか、誰と行ったのか記憶にはないが。ラストシーン。
“まだ、最高裁があるぞ”と接見室の窓枠につかまるようにして絶叫していた死刑囚の姿・・・。

その映画を観て、将来、司法の道に進みたいと思った。そのための勉強もしたが、果たせなかった。言ってみれば挫折。それとメディアの道に進みたいという願望とのひっぱりあい。結果、司法は断念した。

その時は、青臭い青年は、司法には正義が存在すると確信していた。そして十数年、数多くの司法に関する出来事、裁判や検察、弁護士。
そこに正義が存在することを疑う出来事が沢山あった。

司法にすら「正義」が存在しない。そんな“確信”に変わった。検察の正義とは時の体制を崩壊させないこと。警察の正義は、とにかく犯人を見つけだすこと。犯人を作ること。そのためにはあらゆる手段を駆使するということ。
そして、最後の砦である裁判所は、その法解釈も含めて、恣意的な判断がくだされるということ。などなど。

袴田事件で静岡地裁の村山という裁判長は、ようやく再審を認め、かつて下されていた、いくつもの、最高裁の判決も含めて、すべての先件を否定した。そして「正義」という言葉を使った。

正義の名の下に、48年間拘留され、死の恐怖におののく毎日を過ごしていた人がいる。その人に「耐えがたいほど正義に反する」という見解を示した。
正義であるべき警察や検察の捜査を「ねつ造」と判断した。

「正義」について考えている。

何が正義であり、何が正義ではないかということ。屁理屈のようだが、世の中すべてが正義であれば、その言葉は存在しない。不正義があり、それが横行しているから正義とう観念が存在するのだと。

不公平、不平等、差別、ねつ造、欺瞞・・・。すべて「正義」に反することが、この福島の地には存在している。その「不正義」を司法は果敢に裁こうとしない。判断することを避けている。

「フクシマ」は、そのあらゆる矛盾と不正義に完全にさらされている。


そして例えば政治の場では、倫理観も含めて「不正義」に該当することが公然と行われ、暴かれると言いわけに終始する。

大国は戦争を行う。彼らは言う。「正義のための戦争だ」と。

強者と弱者が存在する。強者には強者の正義があるのだろう。弱者にも弱者の正義があって然るべきだ。弱者がいるから「強者」が生まれる。
不正義がはびこるから正義が言われる。

雇用の場でも、経済の場でも、商取引の場でも、例えば「下請けいじめ」と言われる“耐え難く正義に反する行為”が行われている。
多くの人は、それを“他人事”として見て見ぬふりをし続ける。見て見ぬふり、知らんぷり。これとて大きな概念の一つとして正義に反してはいないだろうか。

およそ社会正義とはかけ離れたところに身を置く羽目になった13万人の福島県人。
彼らにとっての正義とは。フクシマにとっての、フクシマの正義とは・・・。
だれがそれを判断するのだろうか。

だから、この際、この社会が包含するあらゆる矛盾や不正義をすべて洗いだす作業にとりかからねばならないのかもしれない。
それが、「今の正義」を考える上での要諦になるかもしれないから。

「戦争が終わる度に、誰かが後片付けをしなければならない。何と言っても、ひとりでに物事が、それなりに片づいてくれるわけではないのだから」。
ポーランドの女流詩人、ヴィスワヴァ・シンボルスカの詩の冒頭だ。
せめて「後片付け」の作業を正義と捉えてみるのも悪くない。

シンボルスカがノーベル文学賞を受賞した時、記念講演でこう述べている。
「どうやら、これから先も詩人たちはいつも、沢山の仕事があるようです」。

せめて司法という場に置いては、正義のための沢山の仕事があることを、それに携わる人達すべてに“覚悟”してもらいたいとも思うのだが。

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