2014年3月10日月曜日

「ふるさと」・・・

“穢土三歳(えどみとせ) 絆断ち切れず彷徨す”

柳壇にあった一句。

勝手に推測する。作者の心境を。
双葉の地から避難した人ではないかと。離れさせられて三年。いまだ汚染されたままの故郷を、あえて「穢土」と詠んでみる悲しさ。

“ふるさとは遠きにありて思うもの そして悲しくうたうもの
よしやうらぶれて異土の乞食(かたい)となろうとも
帰るところにあるまじや“

室尾犀星の詩が重なる。「えど」と「いど」が。

故郷、ふるさと、古里。いつの間にか、新聞に書かれる字は「古里」になった。
なんで変えたのか、その理由は書かれていない。

土日、多くのテレビ番組を見た。見て疲れた。見て考えた。考えは何もまとまらない。

考えていたことの一つが「故郷」とは何かということ。故郷を失って早や3年。
その言葉は安易に使えない言葉のようになった気がする。

その地に戻るのか、その地を失うのか、失った結果、魂とともにさまよい続けるのか。

浪江で葬祭場を営んで人達は再建を目指している。その人が仲間たちと歌っていた「故郷」。誰が歌うよりもこころに沁みた。

浪江から仮設に移った人が言っていた。「あんな綺麗な風景はないですよ。海に登る朝の太陽。帰りたいですよ。また見たいですよ。元気をもらえていたから」。

大熊の凍った池には多くの白鳥が飛来していた光景があった。「あいつら放射能は関係ないもんな。ほんと可愛い顔している」。“じじい部隊”の一人が淡々と語っていた。

故郷とは何なのだろう。何処なのだろう。

ボクに故郷とは何か、どこかと問われた時、それへの答えを持たない。
生まれた土地に故郷意識は無い。僅かの日数しかいなかったというから。
もちろん記憶もないから。出生地が故郷では無いと思う。

子供の頃からずっといた東京。その地はある。渋谷区初台という地名は。
本籍地もそこにしたままだ。無意識に中での故郷意識なのだろうか。
しかし、そこには帰るべき家は無い。手放して福島に移ってきたから。

たしかに、あの懐かしい町の光景は変わった。でも、何かがある。子供の頃の匂いがある。
笹の葉で舟を作り、ドブに流して。その行き先を追っかけていた。
ちょっと歩くと裏山があった。雑草の生い茂った。そこに“秘密基地”をつくって、毎日のようにこもっていた。

建物は替わった。だけど、曲がり角はわかる。覚えている。
幼馴染は全員いなくなった。顔見知りも僅かになった。
でも、あの場所は数多くの思い出とともにボクの中にある。

帰れない故郷しとして、その地がある。

第二の故郷。人はよくそう言う。ならば福島は、郡山は第二の故郷か。単純にそうも言えない。故郷に第二も、第一も無いと思っているから。

作家で学者の姜尚中が訥々と、静かに語っていた。
「今、居る所を、暮らしているところが故郷だと思うのです」と。

在日としての日本。彼の胸中は察するにあまりがある。

デラシネ。故郷を喪失した人、根無し草。そして時にはエトランゼ・・・。

故郷という言葉に”定義“はあるのだろうか。故郷論は確たる考察があって出来上がっているものなのだろうか。

建て前としての「故郷」、本音としての「故郷」。
それは“救いを求める”言葉として存在するものなのだろうか。

それを持ち出すことによって人の心を縛るものなのだろうか。

時には演歌の歌詞に登場する「ふるさと」に惹かれ、時は詩人のこころの襞に触れ・・・。

「ふるさと」を見つけようとして、ボクの心は、それこそ彷徨しているようだ。

今日は、69年前、東京大空襲があった日。10万の人が亡くなった日。
東京という故郷を離れざるを得なかった人達も大勢いた。

せめてこの国が、「故郷」と言えるところで有って欲しいとも思う。戦後、抑留者が目指したふるさとの地。

そこは荒れ果てていようとも「故郷は故郷」なのかもしれないし。

「3・11」が教えてくれたことの一つ。果て無き「故郷論」。

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