2016年1月17日日曜日

1・17から3・11へ、そして生きると言うこと

21年前のきょう、1月17日。早朝、会社の宿直からの電話でたたき起こされた。会社に行ったものの、とりあえずはテレビの情報を見比べているしかなかった。取材の応援スタッフを決め、待機させ、キー局や大阪の局と連絡しながら、何日か会社にいた。
いたことはいたけど、それはやはり“傍観者”でしかなかった。“当事者”にはなれなかった。

しばらくして、朝日新聞の県版のコラムに書いた。「阪神・淡路大震災と方丈記」という愚にもつかないコラムを。

衝撃的な天災だった。

その時、3.11が来るなんて夢想だにしていなかった。
2011年3月11日、午後2時46分。
1995年1月17日、午前5時46分。

なんで「46」という時間が重なっているんだ・・・。

多くの死者が出た。どうにか助かった人達は、それからの「生きる」ということに懸命だった。

あげく、3・11は原発事故という未曽有の災害を伴ってやってきた。

被災者がいる、助けようとする人がいる、支援に奔走する人がいる。その時、人は自分の中の「正しさ」を判断しながらそれに対処していた。

阪神・淡路大震災と東日本大震災。
ともに多くの教訓を生んだ。さまざまな事を人は学んだ。

神戸と東北3県はどこかでつながった。

神戸の小学生が福島を訪れる。南相馬の小高を見て回り、仮設の人の話を聞き、福島の実相を学ぼうとした。

子供たちは見たことを、聞いたことを、知ったことをどうするか話し合った。
「自分たちの言葉で、そのことを友達や知り合いに伝えよう。話をしよう」と決めた。

自治体はお互いに学びあった。どこかで1・17の経験が3・11後に生かされている。

郡山の開成山公園では、1・17後、早朝にキャンドルをともして「慰霊」と「鎮魂」の祈りを捧げる小さな運動が行われてきた。

今年もそうだった。

関東大震災後、東京の道路は大幅に拡幅された。しかし、今は、それを広いと感じている人はいまい。

神戸でも道路が狭いため、救出・救援活動は困難を極めた。
原発事故、避難命令。
狭い道路一本しかない“避難経路”。届かない情報。

津波の被災地域でもそうだ。避難道路があれば逃げ切ることが出来たはずの人も沢山いる。

3・11後、“復興”なるものについて子供たちはこういった。
「広い道路を作るべきだ」と。

原発再稼働。原発そのものの安全性が前面で論議される。避難道路や避難手順のことは後回しだ。

天災にしても原発事故にしても、人は「逃げる」ことしか出来ないのだ。
「逃げる」ことによって「生きる」ということが出来るはずだ。

数日前から、また列島各地で地震が多発している。いつ、どこになにが来てもおかしくないような気にすらなる。

都市の在り方含め、人知としてやれることはまだあるはずだ。小高を訪れた子供の話を聞いた友人は「想像力」を巡らせているはずだ。
神戸の復旧は、どこか「人工的」なものの感じがする。復興住宅には「人のぬくもり」が無くなったという。

丸5年を迎えるまでに、正しさとは何かと言う漠然としているようで、人間が失ってはいけないことについて、未だ出し得ない、自分を納得させることの出来ない“思考”の根幹について、語れるようなものを問い詰めて行く“作業”をあらためてしなくてはならないと思っている。

それは社会の在り方であり人の在りかたであるということも含めて・・・。

きょうは静かに神戸のことを想うつこりだ。なにかと縁(えにし)のあったところでもあるから尚更に・・・。

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