2016年1月4日月曜日

「参院選挙の年」だということ

きょうから国会が始まった。通常国会では首相の施政方針演説が行われるものだが、当分はお預けらしい。

この国会、7月の参院選を睨んでの国会だ。そして安倍が目指すのはその参院選で与党過半数をかちとり、悲願である改憲に向けての地歩を強固なものにすることにある。

新聞は書く。通り一遍の表現で。
「約3か月ぶりの与野党の本格的な論戦の場になる」と。
本格的論戦とは何を指すのか。本格的論戦で無い物とは何だったのか。

前の国会終了後安倍はあの安保法案について語らなくなった。既成事実化したのだから何かを言う必要は無いということなのだろう。

しかし、彼は“採決”直前まで、自分の答弁の不適格さも含めて「丁寧な説明をする」と言ってのけていた。
その丁寧な説明なるのもを3か月間で聞いたことはない。そしてその非を批判したマスコミもほとんどない。

不特定多数の一般国民に対して、市民に対して、彼は語りかけることを好まない。何かを恐れているからだ。それは自分の能力の足りなさだ。

国会で、またぞろ誰かが書いた文章を読み上げるしか能はないのだ。
それでも、国会の場で、国会なるものを形骸化させてしまってはいるけれど、あらためて、その賛否はともかく、国民を納得させる「丁寧な説明」が求められているのだ。まずはその約束の履行から始めねばならないのだ。

安保法案は新三本の矢と言う名の、“経済政策”にすり替えられた。

改憲を絡めて、安保法案についてどれだけ野党が攻め切れるのだろう。
論破できるのだろう。

選挙のたびに行われるマスコミの世論調査。支持率含め。そこには必ず「無党派層」と言う区分けが登場する。そしてどうやら論調は無党派層を政治的無関心層と位置付け、それらの人をどこか非難する傾向を読み取る。

今の既成政党のどこかを支持していなくてはいけないのか。支持する政党が無いというのは当たり前のことなのだ。

暴論の類かもしれないが、今、日本の政党政治は岐路に差し掛かっている。
もっと言えば、正当なるものを全部解散してほしいくらいだ。

制度としての民主主義。議員各人にも「個」が存在するはずだ。有権者は政党の「コマ」として議員の名前を書いて投票しているわけではあるまい。

反安倍政治を標ぼうして、野党や市民の間に、これまで無かったような動きがみられる。
共産党が実相はともかく、野党統一を掲げて動き出している。党名変更もやぶさかではないとし、自衛隊も安保も容認するという姿勢だ。それに学者や若者などの市民層が交わる。

この動きを、既成概念で見て来た人たちは「野合」と位置付ける。それは野党の中にあってもだ。永田町の論理を“堪能”してきた人たちだ。

選挙権が18歳に引き下げられる。今、街場で民主主義を語っている多くはその18歳を中心とした若者たちだ。

参院選に向けての動きは戦後民主主義の在り方を問うものになるような予感がする。

だから、あらためて、「民主主義とは何か」「憲法とは何か」を一人一人がお仕着せの言葉では無く、一人一人がじっくり考えなおす。それが今年の政治にまつわる在り様だ。

奇をてらうわけではないが、民主主義や憲法を語る上での恰好な材料は「福島」なのだ。10万人もの避難者がいる福島。その人たちは憲法の恩恵に浴しているのか。そのことだって考える足掛かりになるはずだ。

とにかく、今年は人々が保身であったであろう「沈黙」から抜け出る時のような気がする。

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