2016年1月14日木曜日

三猿としての「安倍政治」

猿を喩えにしては猿に申し訳ないが、“サルマネ”をさせてもらうことをご容赦。
日光東照宮に掲額されている3匹の猿。猿は語呂合わせで引き合いに出されたものかもしれない。

見ざる・言わざる・聞かざる。

論語の「不見・不問・不言」が由来だともいう。“ざる”が“猿”として具象化されてということのようだ。
世の中の悪いことを見たり、聞いたり、言ったりしないで、素直な人生をという教えだ。

これを安倍政治に当てはめてみる。
見ざるーーー。どこまで国民生活の実態を見ているのか。見ざるを決め込んでいる。都合のいい部分だけ見て、あとは見ぬふりだ。

気が向いた時に”アリバイ“のごとく行われる福島視察。彼が見た者は彼にとって都合のいい光景だけだ。もっとも「案内」するほうもする方だが。

国家論戦の中で、非正規雇用者、パートの問題。民主党の女性議員の“実態とのかい離”や論旨(ロジック)不明確なことを追及され、「揚げ足取りだ」と切って捨てた。あげく「枝葉末節な議論は止めましょう」と来たもんだ。

枝葉末節とはどういう意味か。取るに足らないどうでもいいことって意味じゃないのか。
政権が国会に提出した補正予算について議論がされているはず。予算に関わる政策について論議がされているはず。ならば、その政策も“枝葉末節”なのかという理屈だって成り立つ。

聞かざるーーの一つの事例だ。
とにかく、敵対心満載で国会に臨んでいる。ちょっとでも気に食わないことがあると、そのタネは自分がまいたにも関わらず、まさにいつも喧嘩腰。

ああ、宰相の器に相応しくないな・・・。と。
ヴォルテールの「寛容論」でも読んでみてはいかがと。

それは直接、政治に触れたものでは無いが。

そして、マックスウエーバーの「職業としての政治」でも読んでみたはいかがかと。これって政治家になるためのいわば入門編なんだけどな。

彼が聴く耳持つのはお側用人の「心地よい囁き」だけなんだろうな。

どうやら、彼は自分の環境でしか、それを基準にしてしか、“政治如きもの”が出来ないようだ。
「弱者」の声は届かない、聞かざるのようだ。

そして、奇妙なことを言い出す。参院選の焦点は改憲だと言い放ち、拉致問題をめぐる蓮池透の著作に関しては、俺の言っていることが正しい。著者は”問題人物“だ。俺が嘘をついているなら議員を辞めるとまで言う。

しかし1兆円の消費税軽減税率の財源は言を左右にして言わない。

蓮池の国会招致をしてみてはどうだろう。直接対決をさせてみればよかろうに。

数字を捻じ曲げて語るのも得意。自分に都合のいいように話をすり替える。
沖縄に関しては、さらに醜悪なことを言い出す。どこか民主主義を否定するかのような。

「安全保障に関わることは国全体で決めることだ。一地域の選挙で決定するものではない」。そう、沖縄の民意を意に介さないと言っているにも等しい。

 政府が決めるから地方は黙って従え、という意味なのだろうか。地方自治を完全に否定している。

福島県は十分このロジック経験済みだ。

それは長年にわたって積み重ねられてきた「永田町的非民主主義的論理」だ。

福島に「うそかえ祭り」という伝統行事がある。うそ鳥が悪い事の起りを身代わりとなって良い事に変えてくれるという言い伝え。

とかく虚言癖あり、誇大妄想あり、自己主張のかたまりみたいなお方。彼にも「うそ鳥」がついているのだろうかな。

“チェルノブイリ”異聞

  ロシアがウクライナに侵攻し、またも多くの市民、日常が奪われて行く。 ウクライナという言葉、キエフという言葉、チェルノブイリ・・・。 そう、あの最大の原発事故を起こした地名の幾つか。 「チェルノブイリ原発事故」。1986年4月26日。 ウクライナの北部にあるその...