2016年1月25日月曜日

「責任」という言葉のこと

またもや、なにか事があるたびに、実相が伴わない「責任」という言葉が満ち溢れている。



まさに言葉の亡霊のような感じさえする。



政治にカネは付き物だ。



世の中、誰かに物を頼んだり依頼すれば、その“対価”としてお礼の意味でもカネが介在するのは世の常だ。



しかし、週刊誌が抜いたとはいえ、甘利の“疑惑”はとんでもない。



あっせん利得罪や政治資金規正法に明らかに抵触する。

オヤジギャグを言うのも不謹慎だが、余りにも脇が甘すぎる。



要は「なめてる」んだよ。その他疑惑やスキャンダルが言われても平然と居座るその他の閣僚含めて。



それに、やってることが“みみちい”のだ。



甘利はその責を問われて、「職務に精励することが責任を果たすことだ」と言ってのけた。



責任という言葉の真の意味は何なのだろう。



とにかくいろいろな場面で、世上おきていることに関して「責任」という言葉が多すぎる。



政治責任とは何か。普通は辞職を思い浮かべるのだが。



甘利の発言は責任と言うことに対して世間と認識が真逆だ。



安倍もよく使う。国民に対する責任を果たして行きます。と。それの意味もよくわからない。



責任野党って言葉をしきりに使うが、責任野党ってどんな野党を指すのか。



公共交通機関で事故があれば、メディアはすぐ「責任の所在は」とくる。



だけど思うんだ。



もっとも大事な「責任」というものが追及されていないと。明確にされていないと。誰も責任をとらないと。



先の大戦、戦争責任をとったのは誰だ。責任が明確にされないままじゃないのか。戦争遂行を唱えた国民にも責任の一端はあるのではないか。



原発事故の責任を誰がとったか。誰もとっていない。国家としての責任は“厳然として”存在するはずなのに。

賠償責任だって曖昧なままだ。



そして、なにかあると一般市民には「自己責任」という思考が押し付けられる。



責任、責任、責任・・・。



企業で不祥事があると、メディアは鬼の首でもとったように、責任追及を“正義”だとする。企業責任を問う。



じゃ、誤報の責任はどうなる・・・。“責任者”を更迭しただけでは済まないはずなのに。



「責任」という言葉の迷路にはまったような感じがする。



自然破壊。それの責任者は人間だ。地球の温暖化、それが引き起こす異常気象。それだって責任は人間にある。



自然は人間の“責任”を追及しない。いや、しているのかもしれないけど。

森林は伐採される。福島の自然は放置されたままだ。除染すらされていない。



自然に対する冒涜。それの責任なんて多くの人が考えない。



沖縄に押し付けられている米軍基地問題。



沖縄に対する責任を本土の人間がどれほど感じているのか。



軽井沢のバス事故。愛娘を失った父親の言葉は重い。



“今回の事故については、憤りを禁じ得ませんが、多くの報道を見ていると、今の日本が抱える、偏った労働力の不足や、過度な利益の追求、安全の軽視など、社会問題によって生じた、ひずみによって発生したように思えてなりません。今回の事故については、警察によって原因と責任の追及がなされ、また、行政による旅行業者の問題の洗い出しや、改善が行われることを期待しておりますが、すぐによくなるものではないと思っております”



この言葉から「責任」ということの本当の意味を考えることは出来ないのだろうか。



結局、この民主主義と言われる社会にあって、責任と言う重大な言葉をどう理解し、どう実践していくのか。



自分にもあらためて問いかてみる。


“チェルノブイリ”異聞

  ロシアがウクライナに侵攻し、またも多くの市民、日常が奪われて行く。 ウクライナという言葉、キエフという言葉、チェルノブイリ・・・。 そう、あの最大の原発事故を起こした地名の幾つか。 「チェルノブイリ原発事故」。1986年4月26日。 ウクライナの北部にあるその...