2016年1月27日水曜日

「安心」・「安全」そして「不安」

「福島のお米は安全ですが、食べてくれなくて結構です」。
こんな題名の本がある。
主人公は相馬市の農家、震災と原発事故で農地を“追われた”人だ。
この人が言っている言葉だ。

福島県産の米は全袋検査されている。ベクレルは限りなくゼロの近い。極めて「安全」な米なのに、敬遠される。それは“消費者心理”なるものが「安心」を求めているためだ。

県外の消費者だけではない。県内でもわかっていながら県産のコメを食べることにためらいを感じる人もいる。どこか「不安感」をぬぐえないということなのだろう。

だから、決して開き直っているわけではなく、食べてくれなくても結構です、というのは、まさに「消費者中心」の「消費者本位」のこの社会構造に対する大きな違和感を言っているのではないだろうか。

消費、消費者、消費税・・・。連日のように“消費”という言葉が“消費”されている。消費の拡大が日本経済再生の本丸として、消費税アップが社会保障充実のためだとして。

だから「消費」ということを考える。

消費者のこと。

COCO壱番、壱番屋の廃棄食品の横流し事件。頭の黒いネズミは世の中に満ちている。廃棄物と知りながら売る業者。知っていて買う業者。

メディアを中心に語られることは「安全」「安心」の事だ。業者のモラルを追及することだ。

消費者優先と言う大義名分の社会構造にあって、賞味期限とか消費期限とが決められ、それを軸に食品流通は動いていく。

子供の頃、戦後まもなく、いやしばらくか。食えないものは腐ったものだけだった。それを見分けるのは嗅覚と口に入れた時の味だけだった。
どんなに古いものでも、それを腐らせないような工夫があった。
腐ったものを食べたことも何回かある。
食中毒になったことは無い。

腐る寸前の物まで食べないと飢えはしのげなかったのだ。
食べ物が無かったのだ。

なにも今の食の安全という思想を否定しているわけでは決して無い。そういう時代があったということだ。

たとえば一匹の魚だって、調理を工夫して全部食べられるようにしていた。
それが日本の“食文化”だった。

昨今の廃棄物横流し事件に戻る。何でもカネにしようとする今の社会風潮が根底にある。偽装を平然とやる風潮がある。
こうした商行為を許すわけにはいかない。

でも・・・。壱番屋からそんなに大量の“食品廃棄物”が出るのだろう。二次利用の工夫はないのだろうか。生産、仕入れに齟齬があるのではないのか。

食品ロス、食品廃棄物は年間600万トンといわれている。家庭から出されるもの、店から出されるもの。

その主因は、消費者心理。食の安全神話によるものではないのかと。
3分の1ルールとやらで、まだ十分食べられる食品が廃棄物にされる。

だから、壱番屋にも、事件の責任の一端はあるのではないかとも思う。たとえ「消費者」への責任は果たされていると言っても。

食べ物を粗末にしすぎる。何でも使い捨て時代。コンビニの弁当

食べられない子どもがいると、それも大勢いるというのに。飢えに泣く”難民“だって数多くいるとうのに。

「飽食」と「貧食」が同居している時代。なんとも言えない「もやもや感」にさいなまれる。

ちなみに我が家では賞味期限は全く気にしていません。とれたての新鮮な野菜の味も知っているけれど。
食材は努めて県産のものを買っています。もちろん米だって。

「食べ物を粗末にするとバチが当たる」。祖母の言葉を覚えています。

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