あれから、4年7か月が経った「11日」だ。
かすかな、微小な、一縷の望みを託してはいるのだろう。「行方不明者」の海上からの捜索が行われていた。
鎮魂の証ともいえるかもしれない。
関連死も含めて2万人以上が亡くなった東日本大震災、原発事故。
やはり思う。「3・11」は何かを変える機会だったということを。
安保法制に反対する若者たちの行動の端緒は、当時は高校生だった若者たちに、もろもろ考えるきっかけを与えたものであるということを。
主体性を持って、一人一人が声をあげる、行動する。そんな若者が「出現」するとは当時夢想だにしなかったが・・・。
昨日、不自由な体をおして結婚披露宴に行った。10年前までいたテレビ局の部下だった者の結婚式。
「3・11」時にも記者活動をしていたというやつの結婚式。47歳の“春”だ。
新婦は、宮城県出身。被災した家族だと聞いた。
式場のホテルの椅子に座っているのは苦痛だった。座布団を置いてもらうと言うわがまま。
きのうは10日。常総市の大水害から一か月だった。まだ400人が避難所に身を置いているという。たまたま見たテレビの映像。身体が不自由だと思われる高齢者がパイプ椅子に座り、“限りない不安”を口にしていた。
椅子に座ったままでいるということも、決して楽ではないということ。
いまさらみっともないことだけど、自分が不自由になってこそ不自由であることの現実がわかる。頭脳と体のアンバランスに、言い表せない複雑にかけめぐる感情・・・。
それでも、どうにかまだ”普通“にすれば出来ないことが少ないともいうある種の幸運。
急に秋めいてきたこのひと月余り。夕餉、最初に口にする一杯の味噌汁、豚汁。口に入れた時に思わず出る「声」。「う~、美味い」。
不思議な事なのだが、寒い時に口にする暖かもの、熱いものがこんなにも有りがたかったのかということ。
味噌汁を飲みながら、浮かぶ光景がある。ほぼ毎日のように。
あの時の避難所の光景だ。段ボールハウスの光景だ。酸素マスクをつけた人もいた。身体の不自由な人もいた。
避難所が開設されて数日後、郡山の若者たちの手による豚汁の炊き出しがあった。長蛇の列が出来ていた。人々は餓えていたのだ。命をつなぐだけのパンや冷えたおにぎりだけではなく、温かいものに。
発砲スチロールの椀を手にして、それを味わう人たちには笑顔があった。生気が戻っていた。起きられない人の分を貰おうとその列に加わっていた。顔見知りの青年が豚汁をすくいながら、なんで・・・というような不思議な顔で声を掛けてきた。事情はすぐにわかってもらえたが。
温かいラーメンの炊き出しも好評だった。
汁がある食事、温まる風呂。それを日常というかどうかはともかく、それがいかに有りがたい事だったのかということ。
そんな些細なことを今も思い起こしている。一杯の味噌汁、一杯の豚汁。それを味わうことが出来ると言う小さな幸せを。
3・11の時の避難所、一か月たった常総の避難所・・・。味噌汁さえ飲めなかった戦後の一時期の幼年時・・・。
あってはならない原発事故による避難所。そのことの意味。
今夜も出されるであろう味噌汁。同じ思いが浮かぶのだろう。きっと。
この秋の寒さは、4年7か月前の3月の寒さにも似ているようであり。
2015年10月11日日曜日
“チェルノブイリ”異聞
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