2016年7月11日月曜日

テレビと政治

参院選、結果は予想通りだった。予想通り、それは獲得議席のことだけでなくテレビ報道の在り方だったということ。

開票速報の焦点は「改憲勢力」三分の二・・・。

改憲政党三分の二・・・。

かなりのカネをかけて出口調査などを行い、“業界競争”に労苦を費やした。
当落の予想が当たったとか間違ったとか。

そんなことが問題なのではない。

“改憲勢力”とは何か。自民・公明などの与党だけを指している。
違う。

民進党の中にだって「改憲」に前向きな議員だっている。

選挙の争点を安倍が言うままに垂れ流してきた。結果で「改憲勢力」を言うなら、選挙前になぜもっとそれを、「テレビの矜持」として俎上に上げ、視聴者にそれを伝え、議論の、至上の議論としなかったのか。

安倍の腹の中は「改憲」であったことは明白なのに。それを知りながらも敢えて”避けた“、そうそれは安倍が選挙期間中に封印したことの歩測を合せるように。

三分の二の意味、改憲発議の手順、国民投票への行程・・・。
ワイドショーなるものの司会者は、今さらながらに「よく知らなかった」と解説者の話を聞いて納得したような顔をするその無知さ加減。

視聴率という至上命題があるからか、政権の介入、“脅迫”を避けたのか。
なんとも悲しいテレビ。そんな思いがしたものだ。
要するに安倍の土俵で何やら「公共の電波」を使っていたということ。

投票率は低かった。これも予想通りだ。
有権者の50%ちょっとの投票。そのまた何分の一かもしれない得票。
それが、「憲法」というものに対してのこの国の意志をきけるということ。

選挙の中では大方語られなかった憲法論議。
それに疑義をさほど抱かなかった有権者。

またもスチュアート・ミルの言葉を引かざるを得ない。
「一国の国民は自分たちの平均的レベルを超える総理大臣を持つことは出来ない。また一国の政治が総理大臣の器量を超えることはない」。

国民の多くが、有権者の多くが“平均的レベル”ということなのか。
安倍との“運命共同体”であることを願ったのか。

何歳になっても「わからない」ことだらけだ。

ここ数年、「知憲のすすめ」ということを言ってきた。憲法を学べと言ってきた。直接でも間接でも。
しかし、前述のテレビの司会者ではないが、知憲に励んだ人がどれくらいいたのだろうか。

憲法とは決して他人事ではない。9条の戦争放棄だけが憲法では無い。
例えば「生活保護」なる社会システムは、憲法に「健康で文化的な最低限度の生活」と書かれているから出来上がった制度だと言っても過言ではない。

それぞれの人が個人としての価値観や要求、個人的にはなんて断りを入れながらも意見を言うことが出来るのは、「国民は個人として尊重される」と憲法にめいきされているからだ。

言論の自由、表現の自由・・・言うまでもなかろう。

話しが飛躍するようだが、アメリカでは憲法の2条で「銃を持つ自由」を保障している。国がそれを担保している。
結果、アメリカは、国の理想とはかけ離れたように、銃社会になり、連日のように発砲、殺人事件が起きている。

憲法にある条項は一人一人の”日常“に関与してくると言うこと。

秋ごろには安倍は「改憲」を議論の俎上に上げてくるだろう。もちろん国会の憲法審査会は政府の提案でそれを“議論”しない仕組みになってはいるものの「立法府の長だ」と豪語した安倍、どんな手を使ってくるのか。

とにかく、今度の参院選。安倍の、安倍の手下による「メディア戦略」が功を奏したと言っても過言ではあるまい。

この手法は、この先も折に触れて使われるのだろう。

視聴率や広告収入の問題はあるだろう。でもテレビ人よ。もう一回テレビの矜持を取り戻してくれないものかと。
「お前はただの現在に過ぎない」と“自己判定”しないでいられるためにも。

2016年7月10日日曜日

「病院で考えた民主主義」のこと

今日は参院選の投票日だ。

あらためて感じる争点無き選挙戦、いや争点隠しの選挙戦だったなと。

そして、この一年、考え続けてきたこの国の“民主主義”というもの。
言葉だけが踊り、それは曲がり角どころか、持て余しているようになっているかもしれないと言う“政治”の現実。

投票率は低いと見込む。

その“原因”は何か。
有権者に選挙への関心が薄れているということだけか。

選挙権が18歳以上となった。新有権者はどれほど選挙に関心を持ったのか。
関心を投票行動に結びつけたのか。
投票率を高めるために、投票に行った新有権者には“ご褒美”が与えられると言う。

有権者として当然の行為である選挙に参加することまで”餌“でつらねばならないという。悲しい実相だと思う。

夜8時、テレビは一斉に大きなテロップでいきなり投票結果を伝えるはずだ。
「与党圧勝」とか「改憲勢力三分の二」とかになるのか。

少なくともこれまでの「横並び」のような世論調査の結果を信じるならそんな予想が湧く。

やがてお決まりのように何回も映し出される「バンザイ!」の映像。
かつてその世界に身を置いていた者として、なんともお恥ずかしい次第。

一瞬にして自分が政治に参加したということの結果が現れてしまうということ。

どこか「間尺に合わない」し「摩訶不思議」とも言える。
その“速報”なるものにいかほどの意味があるのか。

メディア、特にテレビの「過当競争」と言わざるをえない。

選挙に関心が無い。投票しても意味が無い。そう思わせてしまうのは、当日の速報のことでは無く、事前の“正確”な世論調査の影響を否定できない。

「投票しても何も変わらない」という意識を植え付けるだけだ。

世論調査の中には無関心層という分け方がある。かなり多い。
「なんだ、こんなに無関心な人がいるんだ。それじゃ“参加”しなくたっていいじゃん。そう思う人だっている。

投票に行くと言う行為は「当たり前のこと」なのだ。選挙の結果がどうなろうと、投票には行くべきなのだ。結果が問題なのではない。それ以前の意志と行為の問題なのだ。

「民主主義」を言うならば。


去年の7月17日、突然(それは大方突然にくる)脳梗塞なる疾患に襲われ緊急入院していた。

手足は不自由になっていたが、頭脳は比較的確かだった。

病室に落ち着いてから、なぜかベッドの中で、連日「民主主義」ということを考えていた。

国会前で、連日のように「安保関連法案」をめぐる“新しい形”の反対運動が展開されていたからだ。
民主主義、議会制民主主義の在り様とも絡んで。

民主主義とはなんだ。これだ!とコールがこだましていた。

病院で民主主義を考える。つまり自分がその時置かれた環境の中でそれを考える。“奇妙”な体験だった。

医師はきちんと、検査をし、病状を説明し、的確な、それはもちろんその医師の判断ではあるが、的確な対処法を示してくれた。
処方箋を作ってくれた。
患者としての自分は、その医師の“施策”に、彼に信を置くことが出来ると判断したから身を委ねた。

政治と国民との間の在り様にも似ている。
正確な病状の説明は、政治にあっては正確なこの国の現状を示すことでもある。
処方箋を示す言うことは、こんな政治をやりますということでもある。

どういう治療を行い、回復に導くかは、政治の場であっては、「本音」を語り、それについて、“インフォームド・コンセント”、納得できる「同意」を語りかけることである。

未だ足は不自由だし、なにかと日常に不便さはある。
でも、患者に対して正確な病状を説明し、的確だと思う治療方法を彼は熱心に説明してくれた。
僕はそれに納得した。

「病院で考えた民主主義」とはこんなことだった。

そんなことをそこはかとなく思う参院選投票日のきょう。

選挙の在り方、選挙報道の在り方。大きく変える時代に来ていると思慮することしきりにて。

2016年7月7日木曜日

「異形の国」としての日本

参院戦についてちょこっと思うことを書く。

結局「原発」は全くと言っていいほど選挙の争点にも論点にもならなかった。 

争点にならなかったと言うよりも、皆、それを避けた。

おかしな言い方かもしれないが、参院選は「定期人事異動」みたいなものだ。
6年経ったら受けねばならない人事考課だ。
政権選択選挙ではない。

有権者の側からすれば、考課の対象を何にするかということ。であるはずなのに・・・。

争点なるものは考課される側が持ち出す。原発は考課の対象にならなかったということだ。

5年前をもうすでに忘れている。思考が「異形」なのだ。

立地地域であるところの候補者も原発は語らない。専門家に任せておけばいいとしている。

「専門家」は政治家では無い。国家の在り様を語れないし、あるべき国家像を持ってはいない。

立地地域の候補者ですらそれを語らない、主張しない「原発」。

それこそが時によっては、そう、福島で表出したように、時の政権が交代の憂き目を見ることに至った「国家としての課題」であるはずなのに。
だから「争点にしない」という見方も成り立つのだろうが。

福島県から立っている候補者とてそうだ。

アベノミクスがどうだの、改憲勢力がどうなの・・・。

マスコミもそれに“便乗”して、単なる”数“の話しに終始している。

福島の現実・・・。

それこそ「国民投票」ではないが、住民集会ではおおかた“軋轢”が生まれている。
国の説明もどこか“義務感”めいている。

安倍も福島に遊説に来た。その行程で、道端の、もとは田畑だったところに積まれている黒いビニール袋の山を見て、何かを感じたであろうか。感じてはいまい。およそ“無関係”なことなのだろうから。

その言は耳には届いてこない。

国の将来を左右するのはアベノミクスなる(自分の名を冠するその“傲慢さ”はともかく)経済政策はいわば詐術に満ちている。国の将来を決するものではない。国際情勢、世界的経済情勢が相関関係にあるものだ。

アクセルをふかす、エンジンンをふかす。意味不明なポピュリズム的アジテートで国民はまさに“局部麻酔”をかけられたような状態なのではないか。

そして野党たるものの、なんたる不甲斐なさよ。特に民進党なるところの。

党首には党首としての一種のカリスマ性が求められるものだ。

岡田にはそれが皆無だ。

選挙には向かない党首なのだ。人を引き付ける、街頭演説で聴衆を魅了するような話術を持たない。

「選挙の顔」ではないのだ。

改憲問題は「争点隠しだ」とメディアは、そこに登場する人たちは、おおよそ異口同音のように言う。
ならば改憲勢力なる政党に改憲を発議出来る3分の2を取らせてみようよ。

発議なんて出来るはずがないはずだ。

議席の問題では無い。国民投票というのが待っている。
英国の国民投票を見れば、その「恐ろしさ」がわかるはずだ。

国は「分裂」するかもしれないのだ。そんな度胸はありやなしや。

「民主主義」と言うものが何であるのか。逆説的な言い方かもしれないが、今、我々が思い描いて来たソレは”死語“にも等しい。

独裁政権が出来ると言う。それを許すほどに日本人は「異形」になったのだろうか。なっていない。

経済政策にしても安保政策にしても、改憲問題にしても、それらは「政治の力」で克服できる可能性がある。

核の問題は違う。もはや人類が人智をもって制御できないものとなっていることに認識を新たにすべきだ。

核、原発の問題に関して「正常性バイアス」を働かせるのはあまりにも愚なのだ。

選挙で問われない原発問題。国民の側からもそれを俎上にあげるべきことでもあるのに。

不作為のまま、目先のことで語られる選挙・・・。

それは何を意味しているのか。

原発を止めるのは「専門家」ではない。政治なのだ。しかし、政治はそれから意識的に逃避する。

そんな思いに煩悶しながら迎える参院選・・・。

「異形の国」と書いた。「異形」とは、津本陽という作家が田中角栄に付した呼称だ。

「異形の将軍」、その本の帯封にはこうある。

//角栄を知ることはこの国のしくみを知ることだ//

2016年7月5日火曜日

「こんな政治家が君臨する国」ということ

一昨日来た新聞の片隅に書いてあった。今朝のコラムにも書かれていた。

オリンピック代表団の壮行会で、森喜朗がこんなことを言ったという。
「国歌を歌えないような選手は日本の代表ではない」。
「口をモゴモゴしてるだけじゃなくて、声を大きくあげ、表彰台に立ったら国家を歌ってください」と。

この壮行会、国歌は“斉唱”ではなく、陸自の“歌姫”による国歌「独唱」だったという。それは式場内に周知されていた。

独唱も斉唱も区別が付かないんだね。この老害おじさんは。
なんでこんなおっさんが2020年の東京オリンピック組織委員会の会長なんだろう。

音楽を政治に持ち込むな、スポーツを政治に持ち込むな。この人たちがそのお仲間たちが最近言い出したセリフ。

ならば問う。政治にスポーツを持ち込むな。議席を確保するために有名スポーツ選手を選挙にだすな。


東京五輪に向けてのこれまでの数多くのゴタゴタ、不祥事。どこかでこの男が絡んでいる。

ラグビー選手が全員、大声で国家を歌っているか。テレビで見る光景の中にそれは無い。足元のラグビー協会で喚けよ。

この人がこの国の総理大臣だった。ITが進み始めた時代。彼はそれを「イットとはなんだ?」と喋った無知無能な政治家だったという記憶。

彼は安倍の“後見人”でもある。
お互いがお互いの代弁者であるかのような光景を何度も見た。

スポーツ界に「君臨」する政治家。それも“独裁者”のごとく。

国歌「君が代」とはなにか。
古今集にある詠み人知らずの恋歌が原型だ。天皇陛下とは無関係な出自を持つ歌だ。

日本人は長らく「国歌」を持たなかった。明治になってから委嘱された宮内庁雅楽部が選んだのが君が代。

当時の為政者はこの歌の「君」を天皇陛下に置き換えた。
勝手な推測を言えば、天皇家にとっても“迷惑”なことでは無かったのではないか。

そういう場に居れば、そういう時であれば大声で歌う。国歌「君が代」を。
歌うには難しい歌だ。途中でオクターブあげてみたり下げてみたり。
「高らかに歌え君が代」。

それはどこか校歌を斉唱した時と同じ感覚だ。今週末には大学の学員会支部総会がある。
校歌を卒業生全員が知っているか。いない。口をモゴモゴさせているOBもいる。暗唱している自分は思いっきり歌う。それは「往時」を懐かしむだけの行為だけかもしれないが。

その大学は卒業したけれど、「愛校心」があるかと問わるとさしたる愛校心なるものもない。が、その時には歌いたくなるものが校歌だ。

オリンピック参加選手は誰しも「日の丸」を掲げたいという。思っている。国旗「日の丸」が掲揚される中で国歌「君が代」の演奏を聴く。それを目指している。

2011年、ナデシコジャパンが日の丸を掲げて場内を一周していた光景は忘れない。
その他でも日の丸を名誉として、それに身を包んで喜びを表現する選手も数多くいる。
スタンドからは日に丸の小旗が打ち振られる。

なぜ森喜朗如きに国歌君が代の斉唱を強要されなくてはならないのか。
非難されねばならないのか。それに対して自分の意見をいう選手がいてもいいじゃないかと思う。
場違いな言葉に対して相手がだれであろうと異論を言う。
そんな“気概”を彼らは彼女らは持っているはずだと信じたいから。

「裏声で歌え君が代」。丸谷才一の著作がある。かれは「君」を「恋する人」と認識したうえで、国家と個人を、独特の難しい文体で綴っている。

上りのエスカレーターを逆走して恋人を追う描写。それは高度成長に浮かれる世相を、国を、比ゆ的に表現したかったのだろうとも受け止めている。

主人公の一人である台湾人との会話では、「国家」と「民衆」、国家と社会制度のありようについての理論的な議論が交わされている。

国歌斉唱は「国家的建前」なのか。「国家の理想」なのか。皆が同じようにすることが。

スポーツと国歌。混同させて考えることしか出来ない「哀れな単細胞男」よ。
この男の無知蒙昧な言葉が選手のモチベーションを下げないことを祈るのみにて。

2016年7月3日日曜日

「不」という文字に支配され・・・

バングラディデュ、ダッカでのテロ。

語る言葉を持てない。語りようがないのだ。
無差別な殺人行為、“コーラン”を唱えられなければ殺すということ。

ISという組織、集団とどう対峙し、非道な行為を止めさせることが出来るのか。
イスラム過激主義集団をどう見ればいいのか。

さきのトルコ、イスタンブールでのテロでも然りだ。

これでは地球上は全部が戦闘地域と言えるのかもしれない。
ISという集団を無くすために、過激派集団を無くすには激しい空爆しかないのか。
彼の地に住む“無垢”の民をも犠牲にすることを厭わずに。

国連をはじめ、国際社会は「無力」なのだろうか。

いま、世界を覆っていることに限りない「不安」が付きまとう。
事の重大さを思う。

JAICAとして、人々を援助しようとする人がテロのターゲットに。
余りにも、我々の常識からすれば「不可解」すぎるのだ。

英国がEUを離脱する。先行きは「不透明」だ。

「不確実性」が増す。

多くのイスラム教徒は、「排除」の対象とされるだろう。

ルペンが登場し、多くの支持を得ている。トランプが多くの支持を得る。

宗教、人種などによる差別が台頭するのだろうか。

「不寛容」な「不寛容さ」が持つべき価値観として再来する。

21世紀という時代は、後年、どんな表現で歴史の中で語られるのだろうか。

「不見識」な言葉や思考が飛び交う。

自らの身を思えば、やはり“老後の不安”なるものがつきまとう。

政治への「不信感」は増す。あまりにも「不作為」なことが多すぎる。

今の時代を読み解くことは「不可能」に近い。


論語に「不憤不啓」という言葉がある。憤せずんば啓せず。

自分が物事を理解するのに苦しんで、知ろうとする努力に燃え、発憤しなければ、自分の中の悩みを啓(ひらく)ことが出来ない、解決出来ない、知識を得ることが出来ない。そんな意味と捉えている。

墳という字は、今は“憤怒”の墳と置き換える。

理性を保ちながら、世の中の事に怒りを持って“対処”しないと、どう読み解けばいいのかが見えなくなってくるとでもいうことか。

「不」という字に翻弄され、やりきれない思いが錯綜しているのであり。

2016年6月26日日曜日

ビートルズとEU離脱、そして“飯舘”

全くの「感情」としての日曜妄語である。

ビートルズと言えばイギリス、イギリスと言えばビートルズ。そんな時代があった。
かつてのビートルズ世代は、今は中高年者だ。

彼らが一世を風靡していた頃、リバプールサウンドが世を席捲しているのを見て、「信じ難い」という感覚があった。

保守的な国としての存在であった英国。大英帝国。そこから、あの斬新な音楽がやって来た。
熱狂的に“歓迎”したのは日本の若者。中高年者はどこか眉を顰めていたようでもあった。

後年、興味を持ってビートルズの音楽に接すると、それは何とも革新的な、それまでの保守的な音楽を打ち破るような物だった。

彼らの歌う歌詞、特にジョンレノンの歌詞は、まさしく全世界の平和を求める、平和であるべきだとする強烈なメッセージを持っていた。
いわば英国単独の“音楽では無く、それこそグローバルな音楽だったのだ。

♪イマジン♪はその典型だ。

想像してごらん 国なんて無いんだと
そんなに難しくないでしょう?
殺す理由も死ぬ理由も無く
そして宗教も無い
さあ想像してごらん みんなが
ただ平和に生きているって...

進取の気風あふれる英国に、いや、王室を持つ英国だからだろうか。皇太子も留学した。「テムズのほとりにて」という本も書いた。

とにかく、その英国がEU離脱を国民投票で決めた。事前の予想を覆してだ。
“離脱”に賛成したのは英国民の、グレートブリテンの中高年層が多かったという。

若者は圧倒的に“残留”を支持したという。

今の「体制」の変革を望んだのは中高年。「体制維持」を支持したのは若年層。

EU離脱を巡る当面の最大の問題は「経済」だろう。世界経済に打撃を与えるとみられる混乱。

場合によっては「世界同時恐慌」も招きかねないかもしれない。

EU離脱にしても決して悪い意味だけではなく、「自国意識」が作用している。

サイコス・ピコ協定にまで遡って考えなくてはならないのかもしれない。

植民地政策で繁栄してきた英国。

歴史はともかく、いま、世界は大きく「保守化」の、あるいは「右寄り」の姿勢が台頭している。

フランスのルペン、アメリカのトランプ現象を見るまでもなく。そして日本もだ。

あと少しで参院選がある。世論調査の結果はともかく、若者がどういう反応を示すのか、行動するのか。これまでは「投票率」が低かったことだけは事実だ。

英国の国民投票、日本の参院選。比較すべき問題ではないと思うけれど。

福島の話を重ねて見る。原発事故の「被災者」としての福島。その象徴的なところとしての飯館。

近く指示が出されるという避難解除、帰還。

帰還するのは多くが中高年、いや高齢者だ。
若年層は帰還しない。

年代によって、物の見方、生きていくことへの価値観が変わる。
英国になぞらえれば“離脱”派は若年層、“残留派”は中高年となるのか。

世界の出来事も含めて、年代間、世代間格差っていうものは「不可避」なことなのだろうか。

最近いわれる「シルバー民主主義」という表現、非常に腹立たしい。安易な言葉遊びのようだ。

国民投票が「民主主義」の最終手段として顕著な動きを見えようとしている。

英国をみても「代議制民主主義」は機能しない制度となったのだろうか。

さまざま世の中曲がり角・・・。

明日の日本の株式市場がどう反応するのか。離脱問題に。気にはなる。だって「年金運用」に密接にからんでくる問題だからだ。
“シルバー”
の一人として・・・。

移住、移民、難民、植民地・・・。そして格差。

日本だって「他人事」ではない。それに類する問題を抱えている。

2016年6月22日水曜日

「参議院」を考える

参院選が今日公示された。しばし、選挙の季節となる。

昔、駆け出しの頃、国会の中をうろちょろしていた頃、参院には「緑風会」という会派があった。保守系無所属の会とでも言おうか。

佐藤尚武。敗戦時、ポツダム宣言の文書を入手し、東京に打電したものの、”無視“された人物。後の議長の重宗雄三。

貴族院時代からの議員だった山本有三など、貴族院の”残党“や文化人、官僚がその多数を占めていた。

緑風会の流れをくんでいたのが二院クラブだとも言えようか。

あまねく政党化されていない参院だった時代。「党議拘束」などというものはほとんど存在していなかった。

やがて今の公明党が公明クラブという名称で議会に登場した。黒柳明、いつも大声で怒鳴っていた。

いつの頃からか。参院の政党化が一挙に進んだ。無所属は極端に減っていった。

かつて「良識の府」と呼ばれ、衆院へのチェック機能を果たしていた参院は、衆院の政党による「カーボンコピー」へと変遷の道をたどった。

全国区だった時代。有名人が、政治に向いているかどうかは無関係に名前が知られている人が議員となって登場した。

被選挙権は30歳。衆院の25歳を上回る規定がある。つまり、30歳にならないと「良識の府」にはふさわしくないとの判断があったからだろう。

有名人で最初に、全国区トップで当選したのはNHKのど自慢の司会アナウンサーだった宮田輝のはずだ。

その後も、鬼の大松や山東明子、扇千景・・・。
「参院は有名人クラブだ」なんて陰口を叩いていた記憶あり。

参院は独自の機能を発揮することなく、衆院に“埋没”した。

これが日本の政治の劣化の始まりだったのかもしれない。

参院無用論が謂われる昨今。

衆院議員は「代議士」だ。参院議員はそうは呼ばない。「議員」だ。参院には“解散”は無い。6年間の“終身雇用”みたいなもんだ。

すべてのケースがそうだったわけではないが、「解散」によって国民の信を問うた。選挙の争点を問うた。

“定期人事異動”のような参院選。「政党」に埋没している参院議員。独自性を発揮出来ない参院議員。参院枠と称して3人の入閣を求めるという「慣例」。

公示の日だからあえて言う。
「あなたはなんで参院議員を目指しているのですか」と。

応えられる候補者はいまい。
鞍替えありの当選可能性ありの知名度ありの・・・。

安倍政権は三分の二の確保を目指し、野党は“共闘”してその阻止を目指す。

「改憲」だからだ。その員数合わせのための参院選だからだ。

安倍はこの参院選で「国民の信を問う」という言葉を連発している。

「信を問う」と言う言葉は、政界用語は、衆院解散・政権選択・総選挙で用い有れる言葉のはず。

無知なのか、何が何でもと言うことなのか。

ちなみに、緑風会結成時の綱領の第一項にはこうある。

「新憲法の基調たる人類普遍の原理にのっとり、愛と正義にもとづく政治の実現を期する」と。

新憲法とはもちろん現行憲法を指す。

参院選に「水を差す」つもりで書いたのではありませんが。
参院の意義を為政者も国民も確認してほしくて・・・。

議員ならどこでも、衆参問いません。殿のご下命なら。ま、そういうことかもしれないけど。

そして明日は沖縄慰霊の日だ。参院選で”沖縄”が議論にされることは・・・。

“チェルノブイリ”異聞

  ロシアがウクライナに侵攻し、またも多くの市民、日常が奪われて行く。 ウクライナという言葉、キエフという言葉、チェルノブイリ・・・。 そう、あの最大の原発事故を起こした地名の幾つか。 「チェルノブイリ原発事故」。1986年4月26日。 ウクライナの北部にあるその...