2014年9月30日火曜日

「少子高齢化社会」ということ

きのう、誤記がありました。与謝野晶子と高村智恵子を混同させてしまいました。智恵子と書くところを晶子と。安達太良山を引いてのくだりで。
申し訳ありません。うっかり・・・。
言い訳。疲れているのかも(笑)。


少子高齢化社会と言われてから久しい。民間とはいえ、政府の肝いりの「日本創成会議」は人口減に警鐘を鳴らし、消滅都市などという言葉も編み出した。

一つの問題提起ではるが、定義の定まらないもの、数字の読み方、視点。議論をよんでいる。

人口問題研究所だったか。出生率の話し。2,1人であるべきなのが、それが人口減を食いとめる基準なのだが。

全国平均でもたしか、1,4人だと言う。都市圏は、東京は、その平均に達していない。1,09人だという。
「人口の再生産」がなされていない。

何故か。そこが大きな問題なのだ。一つの見方としては「産むことをためらう」という傾向がある。今の社会的風潮、社会構造の中で、育てられるかどうかという問題。

「子どもの貧困」が言われている。東京だけの話ではないが。貧困家庭。
母子家庭が多い。母親の稼ぎは子供を育てるにはあまりにも少なすぎる。
学費、教材費、食費・・・。学習塾に通わさなければ学力が追いつかないという教育制度全般の問題。

貧乏人の子沢山だとか、戦後の食糧難の時代を引き合いに出すつもりはない。

まともに食えない子どもがいるという現実。食えない子どもを“仲間外れ”にする風潮。

年収200万円以下では暮らすのが難しいと言う現実。

「老人破産」という言葉が生まれている。子どもの貧困も、老人破産も、NHKの番組が取り上げた問題提起。

ニュースはあかんけど、朝の連ドラや大河ドラマは時代考証含めて、演出含めて、めちゃくちゃであり、見る気にはならないが、「番組」はいいものをやる。

それが東北限定かどうかは定かではないが、「3・11」を追い続けているのはNHKだけだとも思える。しかも腰を据えて。その番組の良否は当事者である被災地の人達が判断すればいい。

“孤族”という言葉も、“無縁社会”という言葉もNHKが作ったような気がする。時に応じて的確な表現なのだ。

老人破産。身に染みる。まだ自分は恵まれていると思う。年金が月20万円ほどあるから。
やがて行き詰る時がくるかもしれないが・・・。

年金月10万。家賃を払えば生活費月4万の暮らし。年老いて。体も不自由で。
「生きる」ということへの意味合いを考える。

セーフティーネットとしての最後の砦。生活保護。不正受給者もいる。予算は十分ではない。行政はいろいろ口実を設けて、受給者を減らそうとしているかのような。

持ち家があったらダメ。車があったらダメ。嘘だ。でもその「嘘」がまかり通っている。

日本の生活保護の“捕捉率”、20%に満たない。ドイツは60%以上、フランスは90%以上だとも言う。

2020年問題。年金制度は破たんの危機を迎えるかもしれない。若年層は負担に耐えられない。受給金額は減る。こじつけでは無い。消費税の引き上げ。人によっては「死活問題」なのだ。

福島県の人口は193万7千人余り。20年以上前は220万人だった。
自然減もあるだろう。原発事故による流出もある。
大熊、双葉など原発周辺地域。まさに「消滅都市」になるかもしれない。地図からも消される町に。

首相は所信表明演説で、「地方創生」を高らかにうたった。そこにわずかな“希望の光”は見えるのか。
地方よりも都会にも“危機”があるということ。

にぎやかな祭りのあとの“けだるさ”なのだ。

2014年9月29日月曜日

「山はしばらく眠りしのみ」

与謝野晶子の詩の一節を引く。雑誌「青鞜」の創刊にあたって寄せたいくつかの詩。「そぞろごと」の中の一つ。


「山の動く日来(きた)る。
かく云へども人われを信ぜじ。
山は姑(しばら)く眠りしのみ。
その昔に於て
山は皆火に燃えて動きしものを。
されど、そは信ぜずともよし。
人よ、ああ、唯これを信ぜよ」。


安達太良に「本当の空がある」とうたった高村智恵子。

与謝野晶子のこの詩は山に喩えて女性の「自立」「権利確保」につながるものではああるが・・・。

「山はしばらく眠りしのみ」。御嶽山の大噴火災害を見て、喩えにしてもその感性に驚愕する。


きのう開かれた火山噴火予知連絡会で藤井会長は認めた。その「限界」を。

「今の段階で測ればわかるというものではない。予知連に予測しろと言われても術がない」。

藤井会長は川内原発再稼働にあたっても、規制委が地震のことを予測することは不可能だ」とも言っている。

科学者たちは自然に敗北した。そう“宣言”したほうがいいのかもしれない。

予知連があると言うことで、予知される、予告されると信じていた人達も大勢いる。それは不可能だと言われたということ。

科学は自然に屈服すべきなのかもしれない。

コンピューターを駆使して、数値を出し、数表を出しても、それを“あざ笑う”かのように自然は猛威をふるう。

3・11大津波。10Mの堤防は越えないということで作られた堤防。津波は越えた。

豪雨、広島の土砂災害。皆「想定外」の自然災害。
科学者たちは沈黙した。

原発事故。多くの科学者がその建設に参画し、多くの科学者は「安全」だとした。

その結果は・・・。

科学者たちの“英知”が生み出したコンピューター。パソコン。ネット。
パソコンはわずか20年の間に普及したもの。

今や、パソコンやスマホを持たねば就職活動も出来ないという。検索サイトに行きつけなければ。

科学技術の進歩がもたらしたものは何か・・・。

自然災害を目の当たりにして再考の余地は無いのか。

“観天望気”というのがある。長い間の言い伝え。

人間が住んではいけない地域があると、先人は言い残した。書き記した。
それを無視して、住まざるを得ないようになった人間社会。

例えばエベレスト、例えばヒマラヤ。最高峰の山に人は登る。登頂に成功する。
それを伝える言葉は「征服」だ。

とんでもない。征服ではないはず。頂上に上るために山は過酷な試練を課した。それを乗り越えた人が山頂に立つことが出来た。登頂に成功した人は、きっと山に感謝したと思う。征服したとは思ってもいまい。


科学と自然。共生だ共存だという問題ではないのかもしれない。
人間が考え出したことにはおのずから「限界」があるということ。

またどこかで山が眠りから醒めて動くのかもしれない。

2014年9月28日日曜日

山が抜けた。山が動いた。

130年以上も前か。1888年、明治21年、福島県の磐梯山が水蒸気爆発を起こし、爆発は繰り返され、死者は4百人を超えた。
爆発によって山が割れた。山が抜けた。
表磐梯と裏磐梯という二つの山のようになった。

山岳信仰の場であった。徳一が建立したという慧日寺があった。
火山性微動が繰り替えされていたというが、その予兆には当時の科学では気付かなかった。

御嶽山が爆発した。衝撃的事実。被害の全容は、まだ明らかになっていない。
救助だってままならない。爆発は続いている。30人以上が心肺停止状態だとも言う。

水蒸気爆発、山岳信仰の場。
火山性微動の予兆は気象庁は確認していた。でも「まさか」が優先されたのか。
入山規制などの措置はとられていなかった。

マグマは動くのか。

日本は言わずと知れた火山列島。富士山だって、爆発の可能性が言われている。
福島県内でも吾妻山、安達太良山。再び磐梯山・・・可能性はある。

地震にしても、噴火にしても、英知を集めたはずの予知連絡会というのがある。
続発していた火山性微動、火山性地震。波形がそれをとらえているのに、「予知」はままならなかった。

自然の為せるわざ。科学の限界。

御嶽山に上る煙を捉えた映像は、1Fの2号機、3号機の爆発時を思い起させる。

なぜか、御嶽山の爆発を伝えるメディアは、鹿児島の火山についてほとんど触れない。大きく扱っていたのは東京新聞くらいか。

桜島の灰に悩まされ続けている鹿児島県民は、御嶽山の映像を見て何を感じたのだろうか。

川内原発再稼働にあたり指摘されていた火山の“宝庫”。川内付近の火山群。
マグマの変動による大爆発が起き、火砕流が今の原発周辺にまで到達していたという過去の「事実」がある。


再稼働の条件としての火山の爆発予測。規制委員会も「事前に爆発の予測は出来る。だから、核燃料は取り出せる」なんていうことを言っていた。

予測が出来ないことを御嶽山は如実に示した。文字通り「他山」の出来事では無いはずだ。

御嶽山は再稼働議論に影響を与えることは無いのか。

マスコミという名の「山」は、沈黙してしまっているようにすら思えるのだが。

再稼働に動く政権は、ここはここ、あそこはあそことしらを切るのだろうか。
かつて、自民党の永久政権と思われていた頃、自民党は敗れた時がある。

当時の社会党の委員長だった土井たか子さんが亡くなった。激動の政治史を知る人の一人。土井さんの名セリフは「山が動いた」。

動いた山の余波は、政治の劣化へと繋がっていっているかのような。

磐梯山破裂の要因の一つが、温泉による地質の風化、劣化だったとも言われる。

同次元で語るべきことではないものの、どこか、今の時代を物語っているような気さえして。

などでも言うべきだ。日本は火山列島なのだと。そして、海の向こうの国でも火山の爆発が伝えられているということ。

地球の問題なのかもしれない・・・。

2014年9月27日土曜日

「お~い、雲よ」

すっかり秋の空の気配。
白い雲が漂っている。ゆっくり、ゆっくり動いている。
稲穂は黄金色に染まっている。

近所のビッグパレットからはイベントの音楽が流れてくる。
きっと大勢の人で賑わっているのだろう。

かつてはその渦の中に身を置いていたが・・・。

ビッグパレットという場所は「近寄れない場所」「近寄りたくない場所」になってしまっている。
避難所だったからだ。

郡山の開成山公園では風とロックと芋煮というイベントもやっているはず。あの金髪のお兄ちゃんが踊っているのだろうか。

夕方からは秋祭り。安積国造神社の。
神輿や山車が出て、屋台が出て人で賑わうはず。

その他もろもろ。秋の光景は「3・11」以前も、以後も変わらないような風情。

いつもの秋に戻ったということか。

元に戻る。いいことなんだけど。

なぜか賑わいの中に身を投じられない自分がいる。勝手に殻に閉じこもっているような。

どっかに感じる「わだかまり」。

いろんなイベント。「東日本大震災支援チャリティー」って“看板”掲げているのだろうか。

もういい加減にその“看板”は外して欲しいな。何のためのどこに対するチャリティーなのか。

屁理屈のようだが、その“看板”がある限り、普通には戻っていないってことなんだ。元には戻っていないってことなんだ。

しばし、空を見上げていた。山村慕鳥の詩が浮かんできた。吉野せいに影響を与えた山村慕鳥。

数日前か。テレビがやっていた。貧困の中の子どもの話。満足のメシが食えない家庭の子供のこと。いわゆる母子家庭。家族4人。一日の食費500円。

吉野せいの「洟をたらした神」が浮かぶ。ノボルの姿が。

お~い雲よ
ゆうゆうと
馬鹿にのんきそうじゃないか
どこまでゆくんだ
ずっと磐城平(いわきたいら)の方までゆくんか

ノボルはいわきの農家の中で芋を食って生活していた・・・。
作品の命題は「土」だった。土生きる農民だった・・・。

きょうの雲ものんきそうだ。磐城平に行く気配は無さそうだ。

雲を眺めながら安穏な日を送っていることに戸惑いがある。何をすることも出来ないのだが・・・。

心と空が溶けあわない。

またもALPSが不具合になったという。全く元に戻れない場所。

2014年9月26日金曜日

「汚染土」の行方

きのうの日本語の話しの続きをちょっとだけ。
コミケとよく言われる。コミュニケーションの何かだと思ってたらコミックマーケットを略しているのだという。
大体、コミックマーケットなんて催事の呼称をどれほどが知っているのか。

「とりま」ってご存知ですか、と聞かれた。犬好き。トリマーさんのことかと思う。
とりあえずまあ・・・ってことなんだそうだ。

言葉を略すればいいってもんじゃないんだぜ。

とりあえず、まあ、じゃビールとなる。
「うっ、ビールやばい」とくる。

「やばい」は危ばい。危ない、危険だということ。それが、どこでどう取り違えられたのか。「ものすごく美味い」って意味に変わっている・・。

もうふざけんやないぜって。

で本題。

ヤバいといえば除染で出た汚染土。黒い袋、フレコンバッグが県内のあちこちに野積、山積にされている。仮置き場というところに。60カ所以上だ。

その行き場は・・・。中間貯蔵施設ということになっている。それの建設の目途は立っていない。
来年中の搬入開始。無理だろう。いや無理だ。

県は「受け入れ」を決めたけど、住民への説明会なるものは進んでいない。
年を越しても住民の納得が得られるかどうか・・・。

仕方がないから、国は、仮置き場の契約延長を申し出た。1年ごとの更新とか。

フレコンバッグの耐用年数は、メーカーをしても3年という。すでにして“破損”のケースも言われている。

仮置き場に土地を提供した地権者だってたまったもんじゃない。3年間の「我慢」だと思っていたのだから。

感情論のようだが、「いい加減、嫌になる」。

中間貯蔵施設の建設がなぜ進まないか。国の無策だ。及び腰のその場しのぎを言ってきたからだ。

帰還問題と関係してくると言うこと。

国は、県もそうだろうが、「住民帰還」を言う。いつになるかはともかく、帰還が実現されるなら「余計な物」としての中間貯蔵施設は認められないということになる。
最終処分場になるかどうかはともかく、30年間、付き合わされると言うことへの嫌悪。

最終処分場は県外。国の約束。法律に明記するという。
政府が全株式を保有する特殊法人「日本安全環境事業」という会社に中間貯蔵施設の管理も含め、最終処分場の問題も委ねるという。

そう簡単に安心は出来ない。30年後に法律を変えることなんて簡単に出来ること。


“帰れるかもしれない”場所に、迷惑施設はいらないということ。それが“住民感情”。当然だ。

科学的見地からしても、線量の測定からしても、そこは永久に帰れないところと国が明言すれば、「ならば仕方がないから諦める」という考えだって生まれてくる。

国が「本音」をはっきり言わない限り、言い逃れに終始する「対策」ではだめなんだ。

わかっていても、納得しない。蛇の生殺し状態がつづくということ。

だから黒い袋は積まれていく。どこかに「腹黒い奴」がいる以上は。

話題になっていたような気もするが、東電の敷地内に、タンクの増設場所確保もあろうが、巨大な、せめて覆いのある「集積所」を作ることは非現実的な議論なのだろうか。

仮置き場から黒い袋を移動させるような。

揉め事と黒い袋の山は、まだまだそのままのような気がして・・・。

言葉も土も”汚染”され続けるのを放置したくない。

2014年9月25日木曜日

「ディスる」はいつまで続くのか

日本語が乱れている。日本語が劣化している。不愉快極まりない。言葉の乱れは・・・。

友人が代表をつとめる書道展に行ってきた。出展作品150点。そこには漢字をはじめ、ひらがな、まともな日本語、日本字(漢字もその範疇に入れて)が並んでいた。
日本語の世界に身を置いた気分。落ち着く。
多分、書いた人達は、例えば漢詩一つにしても、日本の詩人の詩にしても、短文であっても、その意味を理解し、字を自分の中で咀嚼して、筆で書いたものだと思う。
「土」という一文字にしても、その字からは大地に根差す、土の持つ意味を理解した上で書かれている。そう、素人にも理解が出来るようだった。
言葉の意味を理解して、それを自分のものとして表現する。「書」の喜びとはそういうことだと思う。だから書道という「道」のついた“文化”になるとも。

にもかかわらず・・・。日本語の世界・・・。

文部科学省が初めて行ったという国語世論調査。話題に供されていたのが、「名詞に“る”や“する”を付けた今はやりの言葉の数々。それの「認知度」。

チンする、パニくる、タクる、ディスる・・・。

チンするは大方の人が使い、知っている。タクるは知らないが20%強。ディスるは20%そこそこ。

これらの言葉が辞書に載っていくのだろうか。辞書の編纂者は「流行語」を町に出て探し回っているとも言うし。

なにやら知らねど、どこからか新しい“言葉”が生まれ、一時流行した“言葉”は消えて行く。死語になる。

言葉とは何か。意志を伝達する手段であり、もとはそれに謂れがあり、普遍的なものであって然るべき。言葉ははじめ“思想”であったのだから。

呼び鈴は、ピンポン~にかわった。ピンポンって卓球かいていいたくなるくらい。

カタカナ語がきわめて氾濫している。それは簡略化されて。

ディスるは、英語のディスレスペクトの略だ。スマオートフォンはスマホと呼ばれるように。

一時期、日本人の言葉の世界を席巻していたハッスル。もう使われない。その頃は「猛烈社員」が歓迎されていた時代だった。ドライな性格。それも無い。

アキバ、オタク、サブカル。カタカナ語、簡略語の洪水の中に戸惑う。

小中学校では、国語教育、日本語教育にもっと意を用うるべきだ。1年間かかって「銀の匙」を読み解くような教育が必要なのだ。と思う。

おかしな言葉が氾濫している。それも、この時代の反映だ。曖昧な言葉使いも。

コンビニに煙草を買いに行った。レシートを差し出した店員。「レシートの方は大丈夫ですか」と来た。大丈夫の意味が理解できない。

「煮詰まる」という言葉の意味が、半数近い人が解釈を間違っている。「他山の石」もそうだ。「やぶさかでない」もそうだ。

真反対の解釈。それは時として、意志の疎通を欠き、争いごとにもつながりかねない。

「ディスる」。ネットに横行している言葉だ。「3・11」後、特にその“登場”は顕著だ。

「福島」をディスる。その傾向も半端ではない。風評はディスるの典型だったかもしれない。

こんな言葉がいつまで使われるのだろう。「ディスって欲しくないぜ」。

1F,東京電力福島第一原子力発電所の“別称”。東電や地元の人は使い慣れた言葉だ。「いちえふ」という題名の漫画も登場した。
「いちえふ」、それは人類史上にも残すべき“新語”であろうと思うが。

時代に迎合しない、普遍的な「日本語大辞典」なるものが生まれないのかなとも思う。

ネット用語が「市民権」を持ってしまう。もちろん一部のスラング好きの連中が好んで、“得意”になって使っているものだが。

おかしな言葉が無くならない限り、日本は取り戻せない。ORZだぜ。

2014年9月24日水曜日

弱者に向けられる刃

神戸で行方不明になっていた小学生の女の子。遺体が発見された。犯人は47歳の男だという。動機も経緯も犯人像も不明だが、「弱者」である小学生が大の男によって殺害されたということ。

子供が危害にあう事件が多い。かつては無かったかというとそうでもないが。
身代金誘拐も頻繁としてあった時代もあったが・・・。

「人さらいに気をつけいな」。祖母から毎日言われていたが、意に介せず遊び回っていた昭和20年代・・・。

我が家の近所の小学校に通う児童にも、「不審者がいる」ということで、保護者が同伴しているという。

盲導犬の刺傷事件もそうだ。大きな「野良犬」には決して手を出さない。抵抗しない盲導犬を刺す。

盲導犬を刺す。弱者である障害者を保護する“弱者の立場”にいる盲導犬。

子供が殺される。他人によっても、親の虐待によっても。

攻撃の相手は、刃を向ける相手は、おおかた弱者だ。強い者には刃向わない。弱者をのみ攻撃する。

そんな「空気」がこの国を覆っているような気がする。

今、この国にある「ヘイトスピーチ」なる現象もそうだ。この国に今住む「在日」は、やはり、人によっては名を隠し、出自も隠すという“弱者”なのだ。

ヘイトスピーチを繰り広げ、デモ行進して、終われば在日が経営するパチンコ屋に行っているとすれば、笑うしかない。

カウンターとよばれる人達がいるというが、攻撃対象にされている人は、大方反撃してこない。

「いじめ」だってそうだ。いじめる側は複数人数。いじめられる子は一人。

表層的なことだけで「弱者」を語ることに忸怩たるものはあるが・・・。

原発事故の避難者の扱い。避難解除区域が出来上がっていく。線量だけではなくいろいろな課題が未解決なのに。

解除後1年を目途に、東電からの「慰謝料」打ち切りの動きがある。月一人10万円。年120万円。船引や川内が該当していることだが。

おしなべて、避難区域の住民は、ある日突然「弱者」となった人達だ。誰が弱者にしたか。それ無しでは暮らせない電気の供給社、「強者」であり、「生殺与奪」の権を持つ東京電力だ。

なにがあろうと、電力会社は社会基盤の担い手として「強者」で有り続ける。

補償金の打ち切り。それは、生活再建がなったからと言うことでは無い。
強者の論理だ。
弱者がそれに抗する術は余りにも少ない。

世論形成の強者である新聞は書く。「賠償のお金は一時的に国が肩代わりするが、最終的には、東電が利用者からの電気代から支払う仕組みになっている」という結語。

「最終的には利用者の負担」といわれれば、誰しも値上げに異を唱える。下手をすると賠償打ち切り論に供給地の人達は加担することにもなりかねない。

弱者はどこまでも弱者で有り続ける。

弱者に向けられる刃。その根底には、たとえ一握りではあろうとも、強者であることを至上とする権力者の支配構造の思想があるからではないのか。

強者、強国、大国・・・。

弱者の側に立つ人達もかなりいるはずなのに。支援する人達もいるはずなのに。
それらの人すら「弱者」の側に追い込んでしまいそうな「空気」・・・。

「男は強くなければならない。強くなければ男ではない。しかし、優しくなければ男の資格はない」。そんなコピーが流布されていた時代もあったけど。
三船映画の全盛時代だったか・・・。

弱きを助け、強きをくじく。時代劇の永遠のテーマでもあったような。いや、任侠映画ですら。

“チェルノブイリ”異聞

  ロシアがウクライナに侵攻し、またも多くの市民、日常が奪われて行く。 ウクライナという言葉、キエフという言葉、チェルノブイリ・・・。 そう、あの最大の原発事故を起こした地名の幾つか。 「チェルノブイリ原発事故」。1986年4月26日。 ウクライナの北部にあるその...