2015年7月6日月曜日

「なでしこジャパン」で想ったこと

女子サッカーワールドカップ。なでしこジャパンは準優勝に終わった。
試合が終わったあとの彼女たちは「グッドルーザー」だった。悪びれない敗者だった。

4年前、まだ「3・11」の余韻が日本中を覆っている時、彼女たちはやはり大きな力を被災地にくれた。予選を通して「頑張ろう東北」の横断幕を掲げてグラウンドを歩く姿は美しかった。

悪びれない敗者に惜しみない声援を拍手を送っていた人達がいる。
原発事故で仮設住まいを余儀なくされている楢葉町の人達。多くが高齢者だ。
集会所でテレビを見ながら声援を送っていた。

なでしこのメンバーの中には地元にあった「マリーゼ」の選手たちがいる。
マリーゼとは海のマリーンと風のブリーズを組み合わせた「造語」だ。

Jビレッジを拠点にしたチームだった。東電の社員だった。彼女たちは。マリーゼのメンバーが原発事故後。すべてがどうしたかはわからない。一部のメンバーはサッカーを続けた。そして、代表になった人たちもいる。
被災地岩手出身の選手もいる。

地元の人たちは口々に言っていた。「褒めてあげたい。ありがとう。まだ生きる希望が生まれた」などと。

躍動する若いスポーツ選手の姿はやはり“偉大”なのだ。
若さとは偉大なものなのだ。

3・11の影響で卒業式が出来なかった学校はいくつもある。その一つの立教新座高校。校長は式辞に代えてメッセージを卒業生に贈った。
「海を見る自由」と題して。

その中の一部を借りる。

「 諸君らのほとんどは、大学に進学する。大学で学ぶとは、又、大学の場にあって、諸君がその時を得るということはいかなることか。大学に行くことは、他の道を行くことといかなる相違があるのか。大学での青春とは、如何なることなのか」。そんな問いかけから始まって、校長はこう言う。

「誤解を恐れずに、あえて、象徴的に云おう。大学に行くとは、「海を見る自由」を得るためなのではないか。
 言葉を変えるならば、“立ち止まる自由”を得るためではないかと思う。現実を直視する自由だと言い換えてもいい」と。

「大学という青春の時間は、時間を自分が管理できる煌めきの時なのだ。
いかなる困難に出会おうとも、自己を直視すること以外に道はない。 いかに悲しみの涙の淵に沈もうとも、それを直視することの他に我々にすべはない。
海を見つめ。大海に出よ。嵐にたけり狂っていても海に出よ。

真っ正直に生きよ。くそまじめな男になれ。一途な男になれ。貧しさを恐れるな。男たちよ。船出の時が来たのだ。思い出に沈殿するな。未来に向かえ。
今は真っ白の帆を上げる時なのだ。愛される存在から愛する存在に変われ。愛に受け身はない」と訴える。

これらの言葉は災後、若者たちに向けられたはなむけの言葉だった。若者の“
覚悟“を問うものだった。

あれから4年後、今、若者たちは「立ち上げっている」ように思える。
自分たちが持っている自由。社会から制約されない自由を、若者の“特権”を行使しはじめている。

安保法制、戦争法案に反対するデモで彼らは彼女たちは声を上げ始めた。同じ世代の声は同じ世代の者に伝わる。共感を生む。
政治に向かって声を上げ始めた若者たち。まだ“知識”は“口調”は稚拙かもしれない。

若者の姿、声に、時には“大人”も共鳴する。負けてはいられないと声を上げ始める人だって出てくるだろう。
参政権は18歳に引き下げられた。18歳は物を言う、声を上げる自由を持っている。彼らの「自由」はまだ制約されていない。彼らは「委縮」もしていない。

彼らは白い帆を上げるかわりにプラカードを上げる時だと自覚し始めたのだ。

若き日の自分と重ね合わせながら、そんな事を想ってみた・・・。

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