2015年7月2日木曜日

「言論の自由」に思うこと

憲法21条第1項の規程。
「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」

憲法は「立憲主義」という思想に基づいて出来ている。
立憲主義とは何か。憲法とは国民が国家権力を縛るものだという考えだ。
憲法を守るのは国家権力の側なのである。

こんな中学校の教科書にあるようなことを今更言い出すのも、それを「知らない人」があまりにも多いと思うからだ。

「知憲のすすめ」ということを言ってきた。「すすめ」とはあまねく日本人が尊敬し崇拝する、お札の顔にもされた福沢諭吉の著作「学問のすすめ」を真似てみたからだ。

この数日間、「言論の自由・報道の自由」について、およそ愚かな議論が交わされている。あまりにも無知な議論が。もう辟易とするくらいに。

そして「言論の自由」という“権利”をはき違えて自己撞着に陥っている人もいる。

言論の自由とはある意味「高邁な思想であり哲学だ」と思っている。
何を言おうと勝手だ。ということでは断じてない。

単に「言葉の暴力」を言論とは言わない。

言論とはそれがいかなる政治思想や立場にあろうと、その言論の是非や理非曲直を、それを聞いた第三者に判断を委ねるということだ。

カタカナ語は使いたくないが「リスペクト」という倫理観が伴ってあることだ。

「私は私の言いたいことを、考えを言う。あなたも自分の意見を言う。それをどう受け止めるかはそれを聞いた、読んだ人達の判断にお任せする」ということだ。

言論の自由と言う“権利”が天賦のものではなく、人々がそれを必要だと思って出来上がったものだ。

それは現行憲法にだけ書かれたものでは無い。組み込まれたものでも無い。
明治憲法、大日本帝国憲法にもその記述はあった。

「第二十九條 日本臣民ハ法律ノ範圍内ニ於テ言論著作印行集會及結社ノ自由ヲ有ス」と。ここにある「法律の許す限り」という字句が、どの法律を指すのかは難しいが。例えば治安維持法を指すのかどうかも含めて。
帝国憲法であっても憲法は最高法規であったことには変わりがないはずだけど。

聞く人の判断にゆだねる。それは裁判官裁判を例にして考えれば一目瞭然だ。
裁判官は法廷内で、その自由が保障された原告、被告の側の言い分を聞いて罪科を判断する。
陪審員が、どちらかの意見が気に食わないと言って、その発言を封殺する権利は無い。

あの元放送作家の、バラエティー番組作家の言い分はあまりにも無知だ。放送作家は番組の視聴率を上げるためにだけ、視聴者という人達に「受ける」ために、ある事無い事の話を作り上げる。視聴者の判断、それは見るか見ないかに任される。逆に言えば「見られる番組」を作るためには「何でも有り」ということにもなる。
根拠の無い、架空の作り話に「言論」という言葉はあてはまらない。

まして、彼は言論を封殺するべきだと考えている。聞く耳持たずどころか・・・。

国家議員に、国家権力の側に言論の自由があるのかどうか。国会議員とて国民だ。でも、権力の側の人間になった時、それは「制約」を受ける。

国会議員に保障されている言論の自由。
それは憲法51条にある「免責特権」だ。

「議院で行った演説・討論・表決について、院外で責任を問われない」という条項。

院外で党本部の会合で言ったことはこの条項とどう整合性が保たれるのか。院内の廊下での記者会見で言ったことは免責特権の範疇にあるのかないのか。

総理大臣にも「言論の自由がある」と官房長官が公言した。総理大臣という立場で、資格での発言。それは51条も含めて「言論の自由」という概念の中で許されることかどうか、それこそ法制局長官にお伺いしたいところだ。

当たり前だと思っていた言論の自由。それが今更大問題になり、論争の争点になっているということ。
結局は「憲法の何を知ってきたのか」というその人の資質の問題ですらある。

日本人は何を学んできたのか。NHK特集ででもやってくれないかな。どう「料理」するかはともかくとして。

“チェルノブイリ”異聞

  ロシアがウクライナに侵攻し、またも多くの市民、日常が奪われて行く。 ウクライナという言葉、キエフという言葉、チェルノブイリ・・・。 そう、あの最大の原発事故を起こした地名の幾つか。 「チェルノブイリ原発事故」。1986年4月26日。 ウクライナの北部にあるその...