2015年7月12日日曜日

「パンパン」という言葉があった時代

70年前、戦争が終わって東京が焼け野原だった時代。ポツンポツンとバラックの建物が立ち始めていた時代。
どこからか隠退蔵物資というものが出てきて闇市が立っていた時代。
闇成金なんて言葉もあった時代。実際に闇市で大儲けした人がいた時代。
子どもがロクな食い物も無く、遊びはベーゴマかメンコだった時代。

進駐軍が、その兵士たちが、アメリカ兵が街を闊歩していた。その米兵の腕にぶら下がるようにして日本人の若い女性が、派手な洋服に身を包み、煙草をくわえ、真っ赤な口紅をつけ、パーマネントをかけた髪型。

そのカップルの脇を身をすくめるように歩いている復員服姿の元兵士など。

進駐軍の兵士に「春をひさぐ」女性たちを、なぜか大人たちはパンパンと呼んでいた。彼女たちの巣窟はたとえば銀座の一角とか新宿の一角にあった。
そこは日本人はオフリミットのような場所であり、しかし、経営しているのは日本人だった。

我が家の近くにもそういう女性が住んでいた家があった。夕方、派手な格好で出かけていっていた。
その家の向かいには「オンリーさん」と呼ばれた囲われた子持ちの女性が住んでいた。

その家の女の子は米兵が帰るまでは家には入れなかった。帰るまで、出来るだけ一緒に遊んでいてあげるようにしていた。無口な子だった。

戦後風俗史の垣間見た一端だ。

子どもの頃の遊び場だった明治神宮にも米兵と日本人女性のカップルが林に中に消えていく光景を何度も目撃した。

満州から引き揚げる時に、逃げる時に強姦を恐れて髪を切って男になっていた女性。
戦後、米兵と行を共にするようになっていた女性。

大方は好んでその道に入ったのではなかろう。カネを稼ぐ手段がそれしか無かったということなのだと思っている。

母親が時々派手な服装をして口紅を塗っている時があった。それは父親との「隠れデート」をするためだった。場所は新宿の寄席。
祖母はその恰好を見ていう。「なんや、そのパンパンみたいな恰好は」と怒った。

なぜあの女性たちが「パンパン」と呼ばれていたのか。その字解、語源、謂われはわからない。

「戦争に負けるということはこういうことなんだ」と子供ながらに思っていた。
淋病とか梅毒とかいう言葉も世間に満ち溢れていたような。
進駐軍の言うがまま、したいがまま。まさに米国への隷従という姿の一つがそれだった。
神奈川県の逗子海岸は汀ホテル(米軍が接収していた)の前のビーチにはロープが張られ、その中は米兵やその家族しか入ってはいけなかった。一番泳ぎ易い場所だった。

もちろん沖縄に比べるべきも無いが、東京やその界隈にも米兵の思うがままといった光景があったということ。

そして、いつの頃か。パンパンは消え、それは死語となった。
銀座、有楽町にあった闇市やパンパン宿の光景。その写真を先日見ることが出来た。その写真が“記憶”を呼び覚まさせてくれた。

そして今・・・。

日本と言う国が、まさに終戦直後のように、対米追従、米国隷属の国になろうとしている。同盟という言葉を金科玉条のようにして、言いなりになろうとしている。
なぜアメリカと一緒に戦争をしなければならないのか。それが国民を守り、国民の幸福を守るということなのか。
アメリカがするかもしれない戦争は日本の為の戦争では無い。アメリカを、アメリカ人の「世界の警察官意識」を維持するための戦争だ。
ホルムズ海峡問題だって、もちろん日本のエネルギー事情、経済活動に影響を及ぼす問題だろう。しかし、そこを「守る」とうことはアメリカにとっても利益であるはずだ。
日本経済が維持されなければアメリカ経済にだって影響が及ぶのだから。

アメリカの戦争をなぜ日本が「支援」しなければならないのか。その問いかけは的を射ているのだ。

戦後の光景と今の光景が全く重なると言うことではないにしても、「戦争」というキーワードの中では合わせ鏡のような気がしてきて・・・。

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