2015年8月31日月曜日

八月の終わりに・・・

秋霖と呼ぶのが相応しいのか。雨また雨の気候。8月はまだ夏のはずなのに。
気象変動とでもいうのか。異常気象ということか。
寒いという言葉が至極当然のように口をついて出る。

何かが「変わる」前触れなのかなとも。

多少の私事。
今年は、8月と言う季節を“まともに”味わっていない。
7月17日の入院。8月の退院。リハビリの日々。考えることも、それを文字化することも難儀な日々。
挙句に尻に粉瘤という瘤のような物が出来、それの摘出手術。痛みゆえに椅子に座ることもままならず。
肉体も神経も、その不具合さにつき合わされ・・・。なのであります。
友人の一人は「こぶとり爺さん」と言ってはくれましたが。

身体がどうであろうと、精神がどうであろうと、これだけは書いておきたかったこと。
8月の終わりに行われた国会前のデモのこと。

国会議事堂前は知悉した場所であり、記憶から抜けない場所だ。
「日米安全保障条約」なる“得体のしれない”ものを巡っての。そして、長年の職場でもあったことをからめて。

60年安保。そこにあった光景は全くカラフルではなく、モノクロの、白と黒との乱闘の場であった。中には僕のような全くのノンポリであり、ただ、そこに行かねばならないという思い込みで参加していた学生もいたにはいたが、デモの参加者は、多くが組織労働者であり、組織化された学生だった。
警棒が振り下ろされ、ジェラルミンの盾が小さな要塞のようであり、放水が繰り返され、道路を占拠したデモ隊がジグザグデモを繰り返す、異様な光景の場所であり、煌々と照らされた国会議事堂の中も異様、異常だった。

そのデモから数年後、その界隈は仕事場になっていた。国会周辺の風景や地形は知悉している。
その道路が人で覆い尽くされるということのおおよその数の想像まで。
12万人の人があの場にいたという。映像を通して見える光景はあまりにもカラフルだ。
労働歌や学連の歌しか聞こえなかったのが、思い思いの歌声や、ドラム、ラップのリズムに代わっている。ファッション雑誌から抜け出してきたような女性が多数いる。

数人の若者が声を上げ始め、ネットをツールにした呼びかけに呼応した人たちが集まる。それぞれの意志で。まったく組織化や動員されてはいない人たち。

約55年前とは比べようもないデモのありかた。そして”武装“していない警察官のソフト警備。

安保反対、安倍打倒、戦争法案反対と声があがる。若者に呼応して立ち上がり、声を挙げ、行動を共にした大人たち。学者や文化人、知識人・・・。

彼らが叫ぶ”安倍“は、アベシンゾウという「個体」ではない。安倍に象徴される今の政治への転換なのだ。だから場所は国会なのであり、安倍の居住区ではないのだ。

彼らはこの国の政治の在り方を変えたいのだ。

「閉塞感」なるものが政治に起因していることを敏感に察知し、それへの抗議の意思を示しているのだ。

「民主主義社会なのだから、選挙を通じて変えよう」。そんな議会制民主主義と言う名の“まやかし”を変えようとしているのだ。これまでの通り一遍の”民主主義“への疑義を表明しているのだ。

それに政治家は気が付いていない。旧態依然の“価値観”でしかデモを謗れない。彼らは決して政治への無関心層ではない。
今の選挙制度の欺瞞を見破っているのだ。
代理性民主主義の”弊害“を感じ取っているのだ。
国会議員には任せておけないという意識に「覚醒」したのだ。

そんな思いにとらわれる。

だから、3・11後に登場したニーバーの祈りの言葉が蘇ってくるのだ。

神よ、
変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、
変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ。

2015年8月にはこの言葉が一番相応しいのかもしれない。

2015年8月27日木曜日

「責任」ということの続き

時々引用させてもらう胸を打つ言葉がある。
立教新座高校校長だった渡辺憲司氏の言葉だ。
去年の卒業式で語られた言葉。「福島の海を見よ」。

//波の音を聞きなさい。吹く風を身に受けなさい。 息を胸いっぱいに吸いなさい。 自然を体感するのです。若き体をいっぱいに開いて感じるのです。 新聞やテレビで分かった気になってはいけない。 今からでも遅くない。否、今だからこそ。震災から 3 年たった福島の海を見つめなさい。 すぐ近くで悲劇がおこり悲劇が続いているのです。 誰もいない海を見なければならないのです。 君は、大人に踏み出したのだ。 君が子供を持った時、君の子供はきっと聞くだろう。 「お父さん。震災の時何してた」と。 君が外国へ行った時、君は聞かれるだろう。 「日本の海はどうだ・・。福島の海はどうだ・・。」 「あの頃どうしていた」と聞かれるのは、君達の青春史に刻まれた宿命なのだ。 君は「忙しかったんだよ」と答えるのか。 忙しいと忘れるは、同源の語である。心を亡くすることだ。 「僕は福島を忘れていたよ」と答えるのだろうか。 福島に対して忙しいと言える者はこの日本にはいない。 福島に対して忘れたと言える人はこの日本にはいない//。

あの「3・11」。それに向き合う日本人としての「責任」を論じた言葉だと思っている。
そして、福島を語った言葉は、今のこの国の姿にも通底している。福島を今の日本、政治に置き換えてもなんらの違和感もない。

戦後70年、こんなことを書いていた人もいた。
//私たちは体験を成り代わって伝えることは出来ないけど、思いや意志は伝えられる。見てしまった者、聞いてしまった者としての責任がある。それを一生背負っていくつもりだ。自分が感じたことを伝えるしかない。//


「安保法制」に反対する官邸前の集会に参加した人は言った。
「今、この法案に反対しなければ一生後悔するだろう。自分の人生を後悔したくないからここに来て声を上げる。あの時、そこにいなかったと後悔したくない」と。

新座高校校長と同じ感覚がある。

理念としての民主主義がそこには厳然として存在しているとも思う。

市井の人たちが思う「責任論」だ。


「未来に対する責任を喜んで背負いたい」。そう述べたデモに参加した19歳の若者もいた。

この人たちの言葉に胸を打たれる。これこそが民主主義なんだなあと。

安倍はもちろん、安倍に連なる国会議員には、こんな考えを持つ素養すらない。

支離滅裂な言辞を弄し、議会を議会とも思わず、立法府を愚弄し、それこそ「出席」してればなんとかなるさのような、法案の成立は目に見えているのだから、答弁の内容がどうであろうと「自分のやりたいことをやる」ってだけの“最高権力者”。

その実相を否としての論陣を張ることに戸惑うメディアの一部。

見た、聞いた、知った。それによってそれを知った人には責任が生じてくる。
責任とは何か。人間が人間であるための根源的な哲学ではないか。
決して形式や形ではない。

政治の場で民主主義が崩壊していくなかで、市井の言葉に民主主義を見たと言うなんとも皮肉に満ちたこの国。

少なくとも国会をバカにしている総理大臣。もはや、彼の存在は「哀れ」という一語に尽きるのかも。誰にとっての「哀れ」か。
敢えて主語は記さない。

2015年8月25日火曜日

「責任」という言葉の軽さと虚しさ

どうもこの国の政治家やマスコミは「責任」という“言葉”が大変お好きらしい。

巨大与党は責任政党。
何か事があると“説明責任”。

だからさ、「責任」ってなんだい。それを多用する人が、実はその意味も本質も知っていないということ。単なる言語としてだけしか扱っていないということ。

なんかというと政治責任。

責任と言う重大なことを軽々な感覚や、偽善的に乱用していることへの、その言葉の使われ方の「軽さ」と「軽薄さ」。

実態を伴わない、意味をなさない言葉が乱れ飛んでいることの哀しさ。
それがこの国の姿の一つの象徴だということ。

責任政党とはどういう政党を指すのか。嘘、偽り、ペテンを平然として吐く政党が責任政党なのか。
言うことをそのたびごとにコロコロ変え、平然としてシラを切る奴らが責任ある政治家か。

政治責任って何なんだい。

説明責任。そんな言葉をだれが使い始めたのか。そんな責任とはどんな責任だ。
説明責任と言えば、それだけで納得してしまう議員の資質とはなんだ。
“説明責任が求められます”、なんて平然と言ってのけるテレビって何だ。


じゃ聞くぜ。報道責任ってのはあるのかないのかって。
報道責任。誤報が云々ということではない。報道すべきことを報道せず、報道しなくてもいいことを大仰に言い募る。そんな彼らの“姿勢。

敢えて報道しない勇気。それが必要なんだと言ってきた。そう今でも思っている。権力を利するような、悪趣味な好奇心を満足させるようなことのことだ。

少なくとも、あの戦争中、「報道責任」は果たされていなかった。知っていても伝えなかった。己が身の保身のために。権力に抗することの利害得失を優先させて。
それがこの国を「誤らせた」、間違った方向に導いていった。権力はその蜜の味を伝統的に知っているから、あの特定秘密保護法なんてものを作らせる。

原発事故、いや原発そのものについても然りだ。何を伝え、何を伝えなかったのか。3・11でもそうだ。何を伝えたのか、何を伝えなかったのか。そのことについての「説明責任」も全く果たされず、その責任追及も及び腰な人たち。

戦争責任は追及されず、それはまったくもって曖昧なまま「戦後70年」という言葉だけが横溢している。
戦争責任をはっきりさせない限り日本の戦後は終わらないのだ。
それは軍部か、政治家か、財閥か、はたまた国民か、戦争と言う空気か。空気ならば、それを醸成したのは誰なのか。

その説明責任を国会の場でとことん追及してもらいたい。

全くのバカなチンピラ議員の素行や言動。それの説明責任を果たせと言うお偉方。バカを当選させた責任というのは存在しないのか。いざとなったら個人の問題にすりかえる狡猾な政党の責任者。行政府の長だから議員の身分には言及しないという議員バッジをつけた最高権力者の立場の使い分け。

これまでこの国の在り様に関することで、為政者や権力者の中に「責任」をとった人っているのかな。

今、われわれが真剣に考えなければならない言葉。それは「責任」という言葉。その真の意味合い、それの受け取り方。責任と言うある種普遍的でもあり、宗教的でもあり、哲学的でもあり、人間が人間である限り、負い続けねばならないことを。

2015年8月23日日曜日

「職業原発除染作業員」はニュースなのか

大阪市内であった中学生男女の殺人事件、その事件について何かの薀蓄を語るものではない。

相変わらずというか、無定見な報道の在り様に怒りすら覚えると言うこと。

事件が発覚してから、それこそテレビのワイドショーは、いつもながらの”野次馬論議“。タレント評論家が言いたい放題。まったくいつも事件が起きた時とかわらない。

子どもが殺されているんだぜ。好奇心を駆り立てる話じゃないんだぜ。

なんで、死体の描写を事細かに伝えなくてはいけないのか。テレビも新聞も。たぶん週刊誌は、もっと猟奇的に書くのだろうが。

「殺されていた」でいいではないのか。何万人の人の好奇心を満足させるより、家族や友人の心情に気を配れよ。

3・11で多くの死者を見聞きし、時にはそれを写真で知り、「死」を伝えることの難しさを学んだはずなのに。
70年前の原爆や戦争での多くの死。その残酷さを認識してかしなくてか。

事件の残忍さを事細かに言うのは裁判だけでいいのではないか。殺され方の仔細を報じることに何らかの意義があるのだろうか。と思っていた。

犯人が逮捕された。45歳の男。同様な連れ去り事件を数回起こしている前科あり。逮捕のきっかけは防犯カメラの映像の解析だけではなかろう。「マエ」を調べての洗っての割り出しなんだろう。

そして何とも言えず嫌な気にさせられたのが、犯人の職業。警察によればというクレジットつきで。

「福島の原発除染作業員」。除染会社の契約社員だとどこもが報道する。
除染作業員という“職種”が生まれたのはわずか4年前からだ。しかもこの犯人はそれに従事したのは1年かそこいらのようだ。

45歳の男。20年以上にわたって他の職業にだって従事していたのではないか。
なぜ、最近の、福島から一時帰宅をしたばかりの職業だけが報じられるのだ。

報じる方に「悪意」はなかろう。福島に対しての。しかしネタとして飛びつきやすい職業だったのではないか。
除染作業と殺人との間になんらの関係も無いはずなのに。

「除染作業員」という言葉に、今後は更にある種の“偏見”のようなものが生まれるかもしれない。その作業は福島にとって欠かせないものであるにもかかわらずだ。

その職業を報道することに、事件の解明に資する何かが存在するとでもいうのだろうか。

事件にかかわる情報が欲しいばかりに、その職業もネタとされ、本筋を違った方向にも誘導しかねない。
作業にあたっている人にとっては迷惑な報道ですらあるのではないかとも。
それはどこか東電の責任論との通じるような事にも思えて。

事件の本質とは違う意味で、どこか「安易な報道」という感が免れない。

2015年8月19日水曜日

「リハビリ」なる日々

8月15日を挟んで、ずっと「戦争」のことを考えていた。
「なぜ戦争が起きたのか」「なぜ戦争があったのか」「なぜ戦争をやめることができなかったのか」

なぜ、なぜ、なぜの疑問は、結局は疑問のままだった。
おかしな喩えだが、この国は70年が経っても「戦後のリハビリ」が終わっていないようだ。

70年が経過した。連日のように戦争体験者の話を見聞きした。そして思った。
「語り部たちは確実に老いて行っている」ということ。そして、「語る言葉」を失いかけているようにも思えるということ。

今年も彼らから多くの事を学んだ。その中でも重要なことの一つが「自分で考える」と言うことが、いつの時代にあってもいかに大切かということだ。

戦争をどう語るか。難しい問題だとあらためて思う。歴史としてだけ語ることと。人間が人間としてあるべきという立場から考えるということと。

どちらにしても、あの戦争時、大方の国民が、戦争遂行を声高に言う国の方針をほとんど無条件に受け入れ、国の言うことを信用し、それに“服従”してきた最大の要因は、国民が自分で考えるということを放棄してきたのではないかということ。

軍部のいうこと、それに追従する報道を、いわば押し付けられたことどもをほとんど何も考えずに鵜呑みにしていたということが最大の問題だったのではないかと。

自分の頭で考えないと、考えなくなると「間違い」に気付かない。何が間違っているかさえわからない。

国全体が進んでいる方向に身をおくことの尾心地の良さ。

それは70年以上も前も、今も変わっていないということ。
少なくとも“安倍信者”なる人達は、“何も考えていない人”の典型かとも思う。

中4日をあけたブログ。中4日、安倍はゴルフに興じ、茶坊主どもがお相手をしていた。何も考えていないテレビ屋もその仲間だった。
その昔は、仕事仲間であり飲み仲間であった、今は“権力亡者”と変身してしまったような男・・・。

安倍の「リハビリ」だったのだろう。“部下”たちは仕事を余儀なくさせられているというのに。

先憂後楽。権力者への戒めの箴言であったはずだが。

私事。
なぜに4日も空けたか。肉体のリハビリによるものだ。

病院でリハビリの日はやはり相当な疲労がある。家でやるリハビリもだ。
悔しい病になったものだと慨嘆しても致し方なく。
その疲労は2日後まで尾を引く。
身体の疲労は思考の疲労にもつながるような。
8月1半ばが締め切りだった原稿2本。何よりも思うに任せぬ手と指。

考えて、考えて、考えすぎるまで考えて・・・。考えたものを文字にすることが出来ないという困惑。それも疲労にわをかける。

ま、リハビリなるものをも“仕事”と心得て・・・。

2015年8月15日土曜日

70年目の8月15日に

70年前の8月15日。きょうと同じように快晴だった。時々入道雲が浮かんでいたような気もする。

正午から「大事な放送がある」と大人たちが言っていた。疎開先の兵庫県飾磨の農家の離れ。
正午にむけてどこからか大人たちが集まって来た。なぜ焼け出された身なのに、その6畳一間の離れにラジオがあったのかはわからない。

放送の内容は理解できなかった。起立してその放送を聞いた大人はしばしの沈黙のあと静かにいった。
「やっと終わった」と。

空襲警報、燈火管制、防空頭巾。それらから逃れられると言う解放感は覚えたのだと思う。4歳余りの少年はなぜか海に向かってかけっていっていた。周りには蝉の声だけがあった。

1945年の8月15日の「記憶」。郡山のタウン誌に与えられているページにあらためて書いている。

ここでもそうだが、腕が指が自由に動かない。キーボードを満足打てない。やたら「誤植」ばかり。デリートの繰り返し。ストレスときたら半端ない。
書かなくてもだれからも非難されないだろうが自らがそれを拒否するのだ。

もう10年になるこのブログ。「3・11」以前は、日常の些末なことを書いていた。時々は世相に対する小言のようなものを書いていた。遊び半分の気持ちで。
「3・11」以降、このブログは変えざるを得なかった。毎日書いた。少なくとも“仮設住宅”が無くなるまでは書き続けようと決めていた。ひと月ほど前、突如脳梗塞なるものに侵される前までは。

もう毎日綴るのはちょっと不可能に近い。友人も休養を勧めてくれる。感謝する。でも数時間かけて書き続けなければならないという想いの方がまさる。

折に触れ、安倍政治が続く限りは何やら言わねばならない。「フクシマ」が同じような様相である限りは、やはり言わねばならないこともある。
「老いの一徹」ではない。この国に生を受け、そこで生きている以上“当然”のことなのだと思う。

言わねばならない。声を上げねばならないと。

昨日の安倍談話。それを語るつもりはない。あまりにもくだらないことだと思うから。
一言だけ言う。未来を彼が俎上に乗せたから。

「あの戦争になんら関わりのない私たちの子や孫、その先の世代の子供たちに謝罪を続ける宿命を負わせてはならない」と言った。ならば、その宿命をおわせないために何をするのか。安倍自身が謝罪を続けることに他ならない。相手が「許す」というまで。自明の理だ。

彼の談話は「日本語」ではなかった。彼の口から出された言葉ではあったが主語も主体も客体もなかった。安倍が謝罪するとは言っていなかった。

ここまで書いて戦没者追悼式を待つ。天皇陛下の言葉を。

「歴史を顧み、先の大戦に対する深い反省ともに、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願う」と述べられた。

昭和天皇の真意はともかく、昭和天皇の詔勅、お言葉で始まった先の戦争。昭和天皇の聖断、詔勅で終わった戦争。

平成天皇が「反省」という言葉を使われたのは初めてだ。天皇家として「反省」という言葉を使い続けられるのか。安倍のいう「謝罪」とどう結びつくのか。

6月23日。8月6日。8月9日。8月15日。天皇にとって忘れられない戦後の4つの日。

その地に何度も足を運ばれた。遠く南方洋上や島にも慰霊の誠を捧げられた。でも、反省は続けるのだということか。

武道館にも蝉の声があったのだろうか。鎮魂の蝉しぐれが。

2015年8月14日金曜日

「戦後70年」とは・・・。

今夜、戦後70年ということで安倍が「談話」を出す。
何を読み上げ、何を語るか。それにほとんど“興味”は無い。

文字が躍っているだけの、言葉が羅列されただけの空虚なものにしか思えないから。
侵略、お詫び、反省・・・。それは彼の本意ではないだろうから。

70年と言う「節目」。なんで見え透いたようなことをするのか。
歴史に名を残したいという自己満足だけなのだろう。
多くの日本国民がそれを望んだことなのだろうか。そうも思えないし。
戦後50年の「村山談話」を否定するものだろうか。そうでもなさそうだ。
60年の小泉談話を否定するのか。そうでもなさそうだ。

少なくとも中国、韓国はそれを注視しているという。荒さがしに走るかもしれない。なんで火中の栗を拾おうとするのか。

浅はかな功名心としか思えない。

談話が“国是”となるわけでもない。“国家理念”となるわけでもない。

談話に盛られた言葉はきわめて“政治的”なものであり、安倍の本心を訴えるものでもなさそうだ。

戦後70年にあたってこの国の総理大臣が何を考え、何をしようとしているのか。
多分、それは意味の無い言葉の単なる羅列ということになるのだろう。

自分で考えて、自分の言葉で語るべきことを、有識者会議なんていう隠れ蓑を作っての無駄な行為。

「出したい」と言う欲望はあっても誰かの手を借り、意見を借りねば出来ないと言う、この無能さとも思う。
他言を、他見を借りてまで出すものではない。

戦後を総括する、戦争を「政治の場」で総括するという作業は、戦後50年にあたっての村山談話でケリがついていると思う。

自、社、さきがけによる村山政権。その政権は比較大1党である自民党が握っていたのだ。
50年と言う節目は自民党の節目だったのだ。

この時をして、民意に鉄槌を下された自民党は大きく変わるべきだったのだ。
村山談話が読み上げられた本会議を1年生議員の安倍は欠席した。
その談話は意に沿わないということで。

20年後の”怨念はらし“ということか。ばかばかしいのだ。

15年前、テレビドラマとして発表された倉本聡の「歸國」という作品。
そのドラマを70年後の今に重ねてみる。

真夜中に東京駅に滑り込んできた軍用列車。降り立つ“英霊”達。その英霊たちが、そのために命を亡くした祖国の実態。英霊はそれを束の間見る。
そこにあった祖国は彼らが命を懸けて守ろうとした国の姿ではなかった。

今、英霊たちがもし帰国できたなら、彼らは無念の涙を流し、憤然として南方に地に去っていったかもしれない。
戦場の露と消えた彼らは、みな思っていたはずだ。

「二度と戦争はしてはならない」と。

戦後70年、安倍政治は、それに与する人たちは九死に一生を得た兵士たちの願いも無視している。英霊の遺志にも背いている。

今夜も官邸前では「戦争反対」を訴える人たちが声を上げるのだろう。
老いも若きも。

語り継がれた戦争も、語り継がれなかった戦争も、ちょっと前までは戦争を知らなかった若者も声をあげる。

英霊たちの”怨念“が、迎え火とともに彼ら、彼女らに乗り移ったような気もして。

2015年8月13日木曜日

「責任」という“空語”

お盆の入り。生憎の雨模様。仏壇の祖母と母の遺影に手を合せる。花と線香を手向けて。いささかの御供え物も。70年前には絶対に口に入れることが叶わなかった甘いものも添えて。
去年のお盆より、仏壇の前にいる時間は長かった。写真をずっと見入っていた。戦争を生き抜いてきた二人の女性と語り合うように・・・。

もはや安倍政治について語ることには何等の意味を持ち合わせないと言う感が増す。
これほど“最低”な、総理大臣と言うポストについた政治家は見たことが無い。

この政権が続く限り、この国は内部崩壊を起こすだろうとの危惧が増す。

こんな男がなぜ総理大臣に成れたのか。総理大臣にしてしまったのか。戦後史の謎であり、戦後70年を経たこの国の大きな“罪科”ですらある。

この政治家には日本人としての日本語力が全く欠如している。言葉の価値、その大きさに全く無神経だ。言葉を冒涜している。

なぜならば、公然と平然と“嘘をつく」ということであり、それにいっぺんの逡巡や後ろめたさも持たない。

「最高責任者としての総理大臣なのだ。俺が言っていることはすべて正しい。俺のいうここだけ聞いていればいい」。
そんな独善的思考にこりかたまり、一切抜け出ようとしない性格。多言に耳を傾けない。自分の「お仲間」以外は。

第一次政権時、福島原発に関して重大事故は断じて起こらない」と国会で断言した。事故は起きた。自分の前言は失脚させている。
免罪符のように時の政権、民主党にいいがかりめいたことをわめくだけ。

知性も品性も品格も無い政治家なのだ。

安保法制。抑止力を語る。安全保障を語る。全て「武力」が前提の。勝つ“戦争”のことしか念頭に無い。後方支援と言う。武器弾薬を米軍の兵站を輸送するという。

先の大戦。狙われたのは輸送船だ。兵糧攻めが昔からの兵法だ。飢餓による死者が敗戦を決定づけた。

武力だけが戦争ではないののだ。

安全保障。食の安全保障。福祉の安全保障。そしてもっかの問題。原発の安全保障。

電力会社が責任を負うと言ってはばからない政権。安全とは言っていないと煙に巻く規制委員会委員長。
学者の良心で「原発再稼働は駄目だ」といってもいいのに。安保法制や憲法で学者が政権に異論を突き付ける。なぜ大方の原子力学者ははっきりものをいわないのだ。

元首相がこぞって安倍政治に異を唱える。それは歯牙にもかけない。
非核3原則はどうでもいいことなんだろう。けしからんと言われてあわてて文言だけを入れる。その言葉を彼は決して尊重しているわけではない。

ようするに単なるわがままお坊ちゃま。国の将来なんて関係ないのだろう。
明日、談話を出すと言う。中身よりも70年で談話を出した首相として名を残したいだけなんだろう。

彼のおかしさをいちいち言っていてもきりがない。とにかく彼は言辞において責任を感じない男なのだ。


明日の彼の談話、翌日の陛下のお言葉。もし二つの言葉の中に齟齬や異があれば、この国は何を指針に進んでいけばいいのか・・・。

平成27年。長州が朝敵になるやもしれずだ。

2015年8月10日月曜日

原発再稼働が意味すること

いささか泣き言めいたことを言えば、世情が「休むこと」を許してくれないということか。しばし、考えることに猶予すら与えてくれないということか。
考えるという”ストレス“から解放してもらえないということか。身体が不自由であることに反比例して、頭に働くことを求められてくるということか。

それは目先の事でもあり、近い将来のことでもあり・・・。

明日、やはり原発が再稼働される。鹿児島県の川内原発。まさに予定通りのことであるかのように。
「3・11」が結局何も変わることを求めなかったかのように。

川内原発の再稼働。それは福島の事故を無かったこととして、福島を“無視”するということではないのかと。

感情論として排斥されるかもしれないが、普通の人ならそう思うのが当然なのだ。

いくら安全基準が満たされた、地元の一部には再稼働、経済効果を求めるという動きがあったとしても、してはならないことのはず。
事故は必ず起きる。そう想像するのが政治の理念のはず。避難計画なんて策定もされず、それは地元自治体の問題だとして再稼働議論の俎上にすらあげられず、しかも一自治体では策定、実施が不可能だということがわかっているにも関わらず実施に移されるということ。

連日の酷暑。冷房の適切な使用が呼び掛けられる。電力量の不足や危機は全く聞かない。電力供給量はひっ迫しているわけでもない。
それなのになぜ、再稼働なのか。単純な話なのだけれど。

もし事故があったら、政治の側は言うだろう。電力会社の責任だ。規制委員会の見解に沿ったまでだと。

政治はいつの間にか”卑怯者“の集団になったような気がする。

全てのことに於いて政治が責任を取ったことは無い。引責辞任と言う言葉はあるが、それはまやかしの責任論だ。
責任はすべからく他者に転嫁される。それをもってして卑怯者と呼ぶ。

安保法制論議。国を守るということが”大義“のごとく言われる。国とはなんだと言うことだ。国民を守るということとどう相関させるのだ。

軍事力で、抑止力とやらで戦争は防げるとまやかしの言辞が弄され、それを信奉する人もいる。

国を守る。国民を守るということは何だ。

原発事故がもう一回起きれば、この国は壊滅するのだ。直接、間接の被災者が生まれることは必定なのだ。

憲法をも最高権力者を自認する人はその解釈も変えた。危険は無いとも戦争に巻き込まれることもないとその人はいった。なぜなら私は総理大臣なのだから、私が言うことに間違いは無いと。

何でも出来る人なら、電力会社がなんと言い張ろうと、官僚がなんと取り繕うとも再稼働を止めればいい。いや、止められるのは政治だけなのだ。
原発再稼働にともなうすべての「不都合」は政治に帰するものなのだ。

70年目の原爆の日と、原発再稼働の日が重なるこの8月・・・。

忌まわしい8月と季節を呼びたくは全くないのだけど。

2015年8月9日日曜日

広島・長崎と官邸との隔たり

広島についで長崎での原爆の日。犠牲者を弔い、核兵器の廃絶を全世界に訴える日。
長崎の田上市長は、今年もそれを訴え、政府がすすめている安全保障法制に限りない疑念を表明した。

広島も長崎も市長による平和宣言。長崎市長は福島にも言及した。
「東日本大震災から4年が過ぎても、原発事故の影響で苦しんでいる福島の皆さんを、長崎はこれからも応援し続けます」と。

福島はどうする。
少なくとも脱原発宣言があってもいいのじゃないかと。

近日中には川内原発が再稼働されるという。原発事故を体験していながら、なぜか隔靴掻痒の福島県と思えてしまうような。世界に向けての発信ってあっていいのじゃないかと。

なんか、70年目の8月に背くような動きの数々。

核兵器。法理論上はそれの運搬もあり得ると言う政府。しかし、総理大臣はそれをさせないと何の根拠も無く言ってのける権力者。

広島・長崎と官邸には大いなる隔たりがあると思えるのだ。

広島・長崎で語られる戦争。それは個々の人間の悲惨な物語だ。残酷な歴史だ。
出発点は「個」なのだ。
政治が語る戦争。そこには“死”もなければ、国民の犠牲もない。単に武力の行使と言う文字面だけの話だ。

戦争と言うものの「認識」が根本的に違っている。

田上市長は、また当然のことを訴えた。

現在、国会では、国の安全保障のあり方を決める法案の審議が行われています。70年前に心に刻んだ誓いが、日本国憲法の平和の理念が、今揺らいでいるのではないかという不安と懸念が広がっています。政府と国会には、この不安と懸念の声に耳を傾け、英知を結集し、慎重で真摯な審議を行うことを求めます」。
穏当な意向表明だ。

それを聞く安倍の瞼は、自分に対して不都合なことを言われた時のいつもの姿。視線が定まらず、瞬きを繰り返し、挙句目を閉じてしまう。
眼をつぶるという行為は拒否の意思表示なのだ。広島でもそうだったように。

国会での「安倍語」を連発しての意味がよくわからない答弁のかずかず。そもそも、いわゆる、まさに・・・。

決まり文句の「だって総理大臣なんだもん」的言辞。

ここ数日、またも見ているような「真夏の世の夢」かとも。正確には夜の夢なんですがね。

2015年8月7日金曜日

「戦争を知らない子ども達」のこと

1970年代の初め頃、ベトナム戦争の頃、フォークソングで“戦争をしらないこどもたち”と言う歌が大ヒットしていた。

♪戦争を知らずに僕らは生まれた。平和の歌を口ずさみながら。僕らの名前を憶えてほしい、戦争を知らない子どもたちさ・・・♪。

おおよそそんな歌詞。反戦歌と言われていたが、どうもこの歌の歌詞が理解できなかった。

戦争を知らない子ども達。その位置づけがわからないのだ。知らないことがいいのか、悪いのか。

「戦争法案」をめぐる反対運動から僕は多くのことを学んだような気がする。
「若者」のことだ。

官邸前に集う“シールズ”の若者たち。17,8歳から20歳過ぎの「普通の学生」。
彼らは彼らなりに「戦争」というものを知って、それに反対の意思表示をしている。

シールズの若者も、高校生のデモ参加者たちも、戦争を知ろうとしてきた。戦争を自分たちで学んだ。
彼らは自らを「戦争を知らないこどもたち」とは呼ばない。彼らは「戦争を知らない大人たち」を非難しているように見受けられる。

「知らない」のは自分たちの親の世代だ。親たちの世代は、たとえば地方議会の議員などがSNSを使って彼らを脅す。就職出来ないぞと。彼らは返す。そんな会社には就職しないと。

親たちの世代。受け身であった世代。たとえば「失われた20年」に身をおいて、「誰も戦争のことを教えてくれなかった」という価値観を持っている世代。

戦争は、黙っていても、誰かが懇切丁寧に教えてくれるものではない。何事もそうだ。学ぶということは「自らが取りに行く作業」なのだ。

それは原発問題とも似通っている。

知らないということを他人のせいにするなよ。自分でつかめ、取りにいけ。ってね。

戦争を知る世代は減っているという。訳知り顔をしたメディアがいう。NHKの調査だと言う。アンケート、正解は1945年8月6日、9日、15日だとか。

なんか「戦争を知らない若者」って、それこそ“レッテル貼り”じゃないのかか。意図的に若者を貶めるかのような。

今の若者、結構「知っている」んだ。知っているから、知ったから声をあげているんじゃないのかな。

確かに、皆、年をとってくるのだから、年寄から戦争のことを聞く、聞かされる機会は少なくなってくる。だから、本でもいい、記録でもいい。自分たちが自ら学んで、自分たちで知る努力をするんだよ。

自らが望んで取りにいったものは忘れない。口をあけて待っていたところに放りこまれた知識は忘れるんだ。

きのう、広島の原爆忌に合わせるように全国高校野球が始まった。100年目の高校野球。奇しくも出場校になった初回の参加校、京都の鳥羽高校の梅谷主将。


“100年間、高校野球は日本の歴史とともに歩んできました。この100年、日本は激動と困難を乗り越えて本日の平和を成し遂げました。
次の100年を担う者として、8月6日の意味を深く胸に刻み、甲子園で躍動することを誓います”。

8月6日の意味をつかもうとしている高校3年生。8月6日を知ることは戦争を知ることになるんだ。

若者に希望をつなぐ酷暑の8月。

2015年8月6日木曜日

8月に考える民主主義

今日は8月6日。日本人が忘れてはならない日の一つだ。広島に原爆が投下された日。そして9日の長崎、敗戦の詔書が読み上げられた8月15日。

8月15日を境に、日本は戦後の時代に入った。そして、民主主義という考えに基づく新たな体制、社会システムを手に入れた。

日本人に、どれほど民主主義という思想が定着しているのだろうか。その恩恵を誰が、どれほど受けているのだろうか。その価値をどれほどの人が認識しているのだろうか。
そして、戦後70年の今、それが軽々しく”否定される“のだろうか。

戦後日本の民主主義は、我々が、時には血を流してでもかちとった民主主義だったのだろうか。与えられた民主主義ではなかったのか。
かつて自由民権運動で、かちとった民主主義と、戦後の民主主義と言う感覚。

政治の側が、権力の側が、歴然と民主主義を否定し、崩壊させようとしている。
それになびく人もいる。

「民主主義とは何か」。もう一回、新たなテーマとして、我々は考えなおさねばならない時じゃないのかと。

少なくとも原爆投下は最初は伏せられた。隠されようとしていた。多くの犠牲者が出ていたにも関わらず。国策は・・・。
隠ぺい。それは民主主義の理念にあってはならないこと。しかし、原発事故後、国はさまざまな形で、事故そのものは否定できないまでも、それにまつわることを、国民に知らせるべきことをさまざま隠ぺいした。

隠す、隠ぺい。今も当然のことのように行われている。それがこの国の姿。

無意味な言葉の羅列が、その意味をなさない言葉の中に、真実を隠している。。目くらましをくらわしてくれている。

8月6日のヒロシマ。核廃絶を訴える日。過ちは繰り返さないと誓う日。


70年前の暑い8月の夏のこと。様相を様変わりさせた70年後の夏の今。日本人は変わったのか、変わってないのか・・・。変わっていないような。変わることを“拒否する”人たちがいるような。

原爆忌。去年の方が遺族代表の言葉含め、政権への抵抗があった。なぜか70年の節目の割には隔靴掻痒の感ある今年。
市長の挨拶も、どこか“遠い日の花火”のような。

安倍の挨拶。無意味じゃないの。核廃絶を言うなら、国会の安保法制論議で、核兵器も弾薬として輸送できるって見解はありゃなんじゃい。

非核三原則なんて言う人も少なくなった。核武装を真剣に言う人もありなので。
そうなんだな。広島も長崎も、彼らにとっては遠い日の花火なのかもしれない・・・。

あらためて、民主主義を考えることになった今年の夏。暑さとは別の「冷めた感情」ありなので。

2015年8月4日火曜日

病院で考えた民主主義

当からから亭、突如閉店状態のままでの数週間となってしまいました。簡単に言えば、亭主は突然病気に罹ってしまいました。

7月16日の夜、座っていたのでよくわからないまま、立った時に足に違和感を感じ。翌朝、足がもつれて歩けない、手がうまく利かないということで、医師に連絡、すぐ病院。検査していわれたのが「脳梗塞」でした。

即刻入院、治療と相成ったわけでありまして。

2週間余り、世間とか全く隔離されたような環境の中にいたのであります。
でも梗塞が出来た血管は幸いにも細いところだったようで、入院、治療は2週間余りで済みました。

後はリハビリ如何にかかっているということですが、歩くのも難儀しており、階段の昇降も手すりにつかまって。挙句パソコンのキーボードが上手く打てないのです。キーボードは押し間違え多発。小指は利かずの人差し指だけのような指さばき。

1行入力に10分かかる有様なのでありまして。という現状報告。

「放置されたままのからから亭」には不審感を持たれた方もかなり有りのご様子で、一応は復帰の、お知らせまでと思いの挨拶なのであります。

残念ながら、3・11以降続けてきた毎日の“営業”はままならない状況です。禁煙の“後遺症”の故か、集中力は欠如しています。気ままな投稿とさせていただきます。そして字数もなるべく少なく・・・。

7月16日の投稿は国会の採決強行のことでした。「なに採決のことなどすぐ忘れるさと」いう政権の驕り高ぶりのことでした。
だから、翌17日にはその続きを書きたかったし、18には国会前の、官邸前のデモを書きたかったのです。忘れていない人たちのことを、憲法学者や若者たちのことを書きたかったのです。

書けない環境になって、病院の中で、焦燥感に捉われていました。いつ書けるようになるかはわからないけれど、考えをまとめておこうとはしましたが・・・。

17日に18日に書きたかったのは民主主義のことでした。病院で民主主義を考えました。

この国には民主主義ってあったのだろうかと言うことでした。あると思っていた民主主義。それは“幻覚”であったことを知らせてくれたのは政治でした。

安倍政治はことごとく民主主義を否定しているということ。彼らの口にする民主主義と考えている民主主義とは違っているということ。
単なる一つの制度・手段にしか過ぎない議会制民主主義、多数決の原理だけをつまみ食いして己が“欲望”を満たそうとしているということ。

だから民主主義というものを、我々は探しに、見つけにいかなければならないということ。そんなことを国会前のデモの中の人々の叫びの中にその萌芽を感じたと言うこと。そんなことでした。

ああ、ここまで書くのは大変でした。きょうはこのくらいでやめておきます。
また書きます。

当店に相変わらずのご贔屓を賜りますようにお願いして。