70年前の8月15日。きょうと同じように快晴だった。時々入道雲が浮かんでいたような気もする。
正午から「大事な放送がある」と大人たちが言っていた。疎開先の兵庫県飾磨の農家の離れ。
正午にむけてどこからか大人たちが集まって来た。なぜ焼け出された身なのに、その6畳一間の離れにラジオがあったのかはわからない。
放送の内容は理解できなかった。起立してその放送を聞いた大人はしばしの沈黙のあと静かにいった。
「やっと終わった」と。
空襲警報、燈火管制、防空頭巾。それらから逃れられると言う解放感は覚えたのだと思う。4歳余りの少年はなぜか海に向かってかけっていっていた。周りには蝉の声だけがあった。
1945年の8月15日の「記憶」。郡山のタウン誌に与えられているページにあらためて書いている。
ここでもそうだが、腕が指が自由に動かない。キーボードを満足打てない。やたら「誤植」ばかり。デリートの繰り返し。ストレスときたら半端ない。
書かなくてもだれからも非難されないだろうが自らがそれを拒否するのだ。
もう10年になるこのブログ。「3・11」以前は、日常の些末なことを書いていた。時々は世相に対する小言のようなものを書いていた。遊び半分の気持ちで。
「3・11」以降、このブログは変えざるを得なかった。毎日書いた。少なくとも“仮設住宅”が無くなるまでは書き続けようと決めていた。ひと月ほど前、突如脳梗塞なるものに侵される前までは。
もう毎日綴るのはちょっと不可能に近い。友人も休養を勧めてくれる。感謝する。でも数時間かけて書き続けなければならないという想いの方がまさる。
折に触れ、安倍政治が続く限りは何やら言わねばならない。「フクシマ」が同じような様相である限りは、やはり言わねばならないこともある。
「老いの一徹」ではない。この国に生を受け、そこで生きている以上“当然”のことなのだと思う。
言わねばならない。声を上げねばならないと。
昨日の安倍談話。それを語るつもりはない。あまりにもくだらないことだと思うから。
一言だけ言う。未来を彼が俎上に乗せたから。
「あの戦争になんら関わりのない私たちの子や孫、その先の世代の子供たちに謝罪を続ける宿命を負わせてはならない」と言った。ならば、その宿命をおわせないために何をするのか。安倍自身が謝罪を続けることに他ならない。相手が「許す」というまで。自明の理だ。
彼の談話は「日本語」ではなかった。彼の口から出された言葉ではあったが主語も主体も客体もなかった。安倍が謝罪するとは言っていなかった。
ここまで書いて戦没者追悼式を待つ。天皇陛下の言葉を。
「歴史を顧み、先の大戦に対する深い反省ともに、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願う」と述べられた。
昭和天皇の真意はともかく、昭和天皇の詔勅、お言葉で始まった先の戦争。昭和天皇の聖断、詔勅で終わった戦争。
平成天皇が「反省」という言葉を使われたのは初めてだ。天皇家として「反省」という言葉を使い続けられるのか。安倍のいう「謝罪」とどう結びつくのか。
6月23日。8月6日。8月9日。8月15日。天皇にとって忘れられない戦後の4つの日。
その地に何度も足を運ばれた。遠く南方洋上や島にも慰霊の誠を捧げられた。でも、反省は続けるのだということか。
武道館にも蝉の声があったのだろうか。鎮魂の蝉しぐれが。
2015年8月15日土曜日
“チェルノブイリ”異聞
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