2015年8月25日火曜日

「責任」という言葉の軽さと虚しさ

どうもこの国の政治家やマスコミは「責任」という“言葉”が大変お好きらしい。

巨大与党は責任政党。
何か事があると“説明責任”。

だからさ、「責任」ってなんだい。それを多用する人が、実はその意味も本質も知っていないということ。単なる言語としてだけしか扱っていないということ。

なんかというと政治責任。

責任と言う重大なことを軽々な感覚や、偽善的に乱用していることへの、その言葉の使われ方の「軽さ」と「軽薄さ」。

実態を伴わない、意味をなさない言葉が乱れ飛んでいることの哀しさ。
それがこの国の姿の一つの象徴だということ。

責任政党とはどういう政党を指すのか。嘘、偽り、ペテンを平然として吐く政党が責任政党なのか。
言うことをそのたびごとにコロコロ変え、平然としてシラを切る奴らが責任ある政治家か。

政治責任って何なんだい。

説明責任。そんな言葉をだれが使い始めたのか。そんな責任とはどんな責任だ。
説明責任と言えば、それだけで納得してしまう議員の資質とはなんだ。
“説明責任が求められます”、なんて平然と言ってのけるテレビって何だ。


じゃ聞くぜ。報道責任ってのはあるのかないのかって。
報道責任。誤報が云々ということではない。報道すべきことを報道せず、報道しなくてもいいことを大仰に言い募る。そんな彼らの“姿勢。

敢えて報道しない勇気。それが必要なんだと言ってきた。そう今でも思っている。権力を利するような、悪趣味な好奇心を満足させるようなことのことだ。

少なくとも、あの戦争中、「報道責任」は果たされていなかった。知っていても伝えなかった。己が身の保身のために。権力に抗することの利害得失を優先させて。
それがこの国を「誤らせた」、間違った方向に導いていった。権力はその蜜の味を伝統的に知っているから、あの特定秘密保護法なんてものを作らせる。

原発事故、いや原発そのものについても然りだ。何を伝え、何を伝えなかったのか。3・11でもそうだ。何を伝えたのか、何を伝えなかったのか。そのことについての「説明責任」も全く果たされず、その責任追及も及び腰な人たち。

戦争責任は追及されず、それはまったくもって曖昧なまま「戦後70年」という言葉だけが横溢している。
戦争責任をはっきりさせない限り日本の戦後は終わらないのだ。
それは軍部か、政治家か、財閥か、はたまた国民か、戦争と言う空気か。空気ならば、それを醸成したのは誰なのか。

その説明責任を国会の場でとことん追及してもらいたい。

全くのバカなチンピラ議員の素行や言動。それの説明責任を果たせと言うお偉方。バカを当選させた責任というのは存在しないのか。いざとなったら個人の問題にすりかえる狡猾な政党の責任者。行政府の長だから議員の身分には言及しないという議員バッジをつけた最高権力者の立場の使い分け。

これまでこの国の在り様に関することで、為政者や権力者の中に「責任」をとった人っているのかな。

今、われわれが真剣に考えなければならない言葉。それは「責任」という言葉。その真の意味合い、それの受け取り方。責任と言うある種普遍的でもあり、宗教的でもあり、哲学的でもあり、人間が人間である限り、負い続けねばならないことを。

“チェルノブイリ”異聞

  ロシアがウクライナに侵攻し、またも多くの市民、日常が奪われて行く。 ウクライナという言葉、キエフという言葉、チェルノブイリ・・・。 そう、あの最大の原発事故を起こした地名の幾つか。 「チェルノブイリ原発事故」。1986年4月26日。 ウクライナの北部にあるその...