2015年8月10日月曜日

原発再稼働が意味すること

いささか泣き言めいたことを言えば、世情が「休むこと」を許してくれないということか。しばし、考えることに猶予すら与えてくれないということか。
考えるという”ストレス“から解放してもらえないということか。身体が不自由であることに反比例して、頭に働くことを求められてくるということか。

それは目先の事でもあり、近い将来のことでもあり・・・。

明日、やはり原発が再稼働される。鹿児島県の川内原発。まさに予定通りのことであるかのように。
「3・11」が結局何も変わることを求めなかったかのように。

川内原発の再稼働。それは福島の事故を無かったこととして、福島を“無視”するということではないのかと。

感情論として排斥されるかもしれないが、普通の人ならそう思うのが当然なのだ。

いくら安全基準が満たされた、地元の一部には再稼働、経済効果を求めるという動きがあったとしても、してはならないことのはず。
事故は必ず起きる。そう想像するのが政治の理念のはず。避難計画なんて策定もされず、それは地元自治体の問題だとして再稼働議論の俎上にすらあげられず、しかも一自治体では策定、実施が不可能だということがわかっているにも関わらず実施に移されるということ。

連日の酷暑。冷房の適切な使用が呼び掛けられる。電力量の不足や危機は全く聞かない。電力供給量はひっ迫しているわけでもない。
それなのになぜ、再稼働なのか。単純な話なのだけれど。

もし事故があったら、政治の側は言うだろう。電力会社の責任だ。規制委員会の見解に沿ったまでだと。

政治はいつの間にか”卑怯者“の集団になったような気がする。

全てのことに於いて政治が責任を取ったことは無い。引責辞任と言う言葉はあるが、それはまやかしの責任論だ。
責任はすべからく他者に転嫁される。それをもってして卑怯者と呼ぶ。

安保法制論議。国を守るということが”大義“のごとく言われる。国とはなんだと言うことだ。国民を守るということとどう相関させるのだ。

軍事力で、抑止力とやらで戦争は防げるとまやかしの言辞が弄され、それを信奉する人もいる。

国を守る。国民を守るということは何だ。

原発事故がもう一回起きれば、この国は壊滅するのだ。直接、間接の被災者が生まれることは必定なのだ。

憲法をも最高権力者を自認する人はその解釈も変えた。危険は無いとも戦争に巻き込まれることもないとその人はいった。なぜなら私は総理大臣なのだから、私が言うことに間違いは無いと。

何でも出来る人なら、電力会社がなんと言い張ろうと、官僚がなんと取り繕うとも再稼働を止めればいい。いや、止められるのは政治だけなのだ。
原発再稼働にともなうすべての「不都合」は政治に帰するものなのだ。

70年目の原爆の日と、原発再稼働の日が重なるこの8月・・・。

忌まわしい8月と季節を呼びたくは全くないのだけど。

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