2015年8月14日金曜日

「戦後70年」とは・・・。

今夜、戦後70年ということで安倍が「談話」を出す。
何を読み上げ、何を語るか。それにほとんど“興味”は無い。

文字が躍っているだけの、言葉が羅列されただけの空虚なものにしか思えないから。
侵略、お詫び、反省・・・。それは彼の本意ではないだろうから。

70年と言う「節目」。なんで見え透いたようなことをするのか。
歴史に名を残したいという自己満足だけなのだろう。
多くの日本国民がそれを望んだことなのだろうか。そうも思えないし。
戦後50年の「村山談話」を否定するものだろうか。そうでもなさそうだ。
60年の小泉談話を否定するのか。そうでもなさそうだ。

少なくとも中国、韓国はそれを注視しているという。荒さがしに走るかもしれない。なんで火中の栗を拾おうとするのか。

浅はかな功名心としか思えない。

談話が“国是”となるわけでもない。“国家理念”となるわけでもない。

談話に盛られた言葉はきわめて“政治的”なものであり、安倍の本心を訴えるものでもなさそうだ。

戦後70年にあたってこの国の総理大臣が何を考え、何をしようとしているのか。
多分、それは意味の無い言葉の単なる羅列ということになるのだろう。

自分で考えて、自分の言葉で語るべきことを、有識者会議なんていう隠れ蓑を作っての無駄な行為。

「出したい」と言う欲望はあっても誰かの手を借り、意見を借りねば出来ないと言う、この無能さとも思う。
他言を、他見を借りてまで出すものではない。

戦後を総括する、戦争を「政治の場」で総括するという作業は、戦後50年にあたっての村山談話でケリがついていると思う。

自、社、さきがけによる村山政権。その政権は比較大1党である自民党が握っていたのだ。
50年と言う節目は自民党の節目だったのだ。

この時をして、民意に鉄槌を下された自民党は大きく変わるべきだったのだ。
村山談話が読み上げられた本会議を1年生議員の安倍は欠席した。
その談話は意に沿わないということで。

20年後の”怨念はらし“ということか。ばかばかしいのだ。

15年前、テレビドラマとして発表された倉本聡の「歸國」という作品。
そのドラマを70年後の今に重ねてみる。

真夜中に東京駅に滑り込んできた軍用列車。降り立つ“英霊”達。その英霊たちが、そのために命を亡くした祖国の実態。英霊はそれを束の間見る。
そこにあった祖国は彼らが命を懸けて守ろうとした国の姿ではなかった。

今、英霊たちがもし帰国できたなら、彼らは無念の涙を流し、憤然として南方に地に去っていったかもしれない。
戦場の露と消えた彼らは、みな思っていたはずだ。

「二度と戦争はしてはならない」と。

戦後70年、安倍政治は、それに与する人たちは九死に一生を得た兵士たちの願いも無視している。英霊の遺志にも背いている。

今夜も官邸前では「戦争反対」を訴える人たちが声を上げるのだろう。
老いも若きも。

語り継がれた戦争も、語り継がれなかった戦争も、ちょっと前までは戦争を知らなかった若者も声をあげる。

英霊たちの”怨念“が、迎え火とともに彼ら、彼女らに乗り移ったような気もして。

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