2015年8月27日木曜日

「責任」ということの続き

時々引用させてもらう胸を打つ言葉がある。
立教新座高校校長だった渡辺憲司氏の言葉だ。
去年の卒業式で語られた言葉。「福島の海を見よ」。

//波の音を聞きなさい。吹く風を身に受けなさい。 息を胸いっぱいに吸いなさい。 自然を体感するのです。若き体をいっぱいに開いて感じるのです。 新聞やテレビで分かった気になってはいけない。 今からでも遅くない。否、今だからこそ。震災から 3 年たった福島の海を見つめなさい。 すぐ近くで悲劇がおこり悲劇が続いているのです。 誰もいない海を見なければならないのです。 君は、大人に踏み出したのだ。 君が子供を持った時、君の子供はきっと聞くだろう。 「お父さん。震災の時何してた」と。 君が外国へ行った時、君は聞かれるだろう。 「日本の海はどうだ・・。福島の海はどうだ・・。」 「あの頃どうしていた」と聞かれるのは、君達の青春史に刻まれた宿命なのだ。 君は「忙しかったんだよ」と答えるのか。 忙しいと忘れるは、同源の語である。心を亡くすることだ。 「僕は福島を忘れていたよ」と答えるのだろうか。 福島に対して忙しいと言える者はこの日本にはいない。 福島に対して忘れたと言える人はこの日本にはいない//。

あの「3・11」。それに向き合う日本人としての「責任」を論じた言葉だと思っている。
そして、福島を語った言葉は、今のこの国の姿にも通底している。福島を今の日本、政治に置き換えてもなんらの違和感もない。

戦後70年、こんなことを書いていた人もいた。
//私たちは体験を成り代わって伝えることは出来ないけど、思いや意志は伝えられる。見てしまった者、聞いてしまった者としての責任がある。それを一生背負っていくつもりだ。自分が感じたことを伝えるしかない。//


「安保法制」に反対する官邸前の集会に参加した人は言った。
「今、この法案に反対しなければ一生後悔するだろう。自分の人生を後悔したくないからここに来て声を上げる。あの時、そこにいなかったと後悔したくない」と。

新座高校校長と同じ感覚がある。

理念としての民主主義がそこには厳然として存在しているとも思う。

市井の人たちが思う「責任論」だ。


「未来に対する責任を喜んで背負いたい」。そう述べたデモに参加した19歳の若者もいた。

この人たちの言葉に胸を打たれる。これこそが民主主義なんだなあと。

安倍はもちろん、安倍に連なる国会議員には、こんな考えを持つ素養すらない。

支離滅裂な言辞を弄し、議会を議会とも思わず、立法府を愚弄し、それこそ「出席」してればなんとかなるさのような、法案の成立は目に見えているのだから、答弁の内容がどうであろうと「自分のやりたいことをやる」ってだけの“最高権力者”。

その実相を否としての論陣を張ることに戸惑うメディアの一部。

見た、聞いた、知った。それによってそれを知った人には責任が生じてくる。
責任とは何か。人間が人間であるための根源的な哲学ではないか。
決して形式や形ではない。

政治の場で民主主義が崩壊していくなかで、市井の言葉に民主主義を見たと言うなんとも皮肉に満ちたこの国。

少なくとも国会をバカにしている総理大臣。もはや、彼の存在は「哀れ」という一語に尽きるのかも。誰にとっての「哀れ」か。
敢えて主語は記さない。

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